2013年8月17日土曜日

絢爛豪華な鯨船山車が縦横無尽に鯨を追い詰める!     -四日市市 富田の鯨船行事-




神社丸(北島組)

こんにちは。

連日猛暑の日本列島ですが、皆様はお変わりなくお過ごしですか?
私の住む名古屋では、もはや35℃越えが当たり前になってしまって、30℃と聞くとなんだか涼しい気さえしてしまいます。
毎朝見る熱中症予報では、“危険な暑さ厳重注意” とありますが、危険な暑さと言われても、ずっと家に籠ってばかりはいられず、どう注意してよいものやらですよね。


神社丸(北島組)のハザシの少年


そんな中、先日、野菜直売所のレジに並んでいたら、私の前にいらっしゃったお年寄りが、ぐらりと揺れたかと思ったら、その場に座り込んでしまいました。
あわわ!急いで店員さんを呼んだのですが、救急車が到着するまでの10分間、店員さんは右往左往するばかり。
お年寄り(おじいさん)の頭を抱えていた私は身動きが出来ず、仕方なく、あれこれ店員さんに指示。

神社丸(北島組)回転

幸いにも意識は、しっかりとしておられたので、保冷用の氷を頂き、首筋と両脇に差し入れ、体温を下げることを最優先。

店にあった冷えていないアイソトニック飲料をもらって、ゆっくりと飲んで頂きました。
そうこうしているうちに救急車が到着したので、あとは救急隊員の方におまかせしまして、私はレジで自分の買い物の清算を済まして、さっさと帰ろうとしたのですが、なぜか店員さんが追いかけてくる・・・




北島組の鯨

「身内の方ではないのですか?」
「いいえ、違いますが?」
「あのぉ~、さっきのポカリ・・・」
「えっ?アイソトニック飲料のお金を払えと?」
なんか違うような気がしますが、指示したのは私です。
ハイハイ払いますよ、128円くらいね(ーー゛)!
128円で、グズグズいうのも嫌だったので、黙って支払いましたよ。


神社丸のはざしが鯨に向かって銛を放ちます

しかし、よく考えてみると、そのまま黙って帰っていたら、私は万引き犯にされちゃう訳ですよね。
一瞬、怒りが込み上げてきたけれど、128円で人助けが出来たと思えばどうでもよくなりました。
そんなことより、想定されるこういった非常事態に対応出来ない店員さんばかりだという事が嘆かわしいじゃありませんか!
って、また関係ない話から始まっちゃいましたね(~_~;)


神社丸対鯨のぶつかり合い


さて、そんな話は置いといて。
相変わらずの猛暑日となった終戦記念日の8月15日、私は懲りもせず祭り見物に出かけました。
もちろん、熱中症になってはいけないので、水筒には韓国の友人が送ってくれた朝鮮人参エキス入り塩蜂蜜レモン水とペットボトルのお茶を1本をリュックに詰め込んで、カメラ2台を肩に出発進行!
この日の目的地は三重県の四日市市です。


手前が神社丸、奥が神徳丸鳥居を挟んでの練り合い


三重県といえば、お隣の県ではありますが、我が家からは渋滞さえなければ非常に便利な高速道路を乗り継いで30分あまりで行けてしまうのです。
盆休み期間でもあるので多少の渋滞は覚悟して出かけたのですが、なんと渋滞もなくスーイスイ。
湾岸を横ぎるその道は、大きな青空が広がっていて素晴らしい景色です。
なんとも素敵なドライブ日和。


本練りが行われる鳥出神社境内


出来ることなら運転席じゃなくて助手席に乗ってドライブしたいものですよ。
・・・ひとりゴチる私 ( ̄◇ ̄;)
ってなわけで、ドライブは約40分で終了。
とりあえず、目的地の鳥出神社の周辺に到着。
駐車場は用意されてはいないとの情報なので、大型スーパーの大駐車場に停めさせてもらって歩くことにしました。(帰りにちゃんと買い物もしましたから許してね)

神徳丸(中島組)

しかし、車を降りてナビがなくなってしまうと方向音痴の私には西も東もさっぱり分かりません。
方法はひとつ!道行く人に尋ねるしかないのです。
ぐるり見渡したところ、ゆるゆると自転車をこぐおじいさん発見!
さっそく声を掛けました。
「すいません、今日祭りの行われる神社はどこですか?」
すると、おじいさんは、「喧嘩か?鯨の方か?今日はあっちこっちの神社で祭りがあるぞ」



中島組の鯨と神徳丸
と、おっしゃるではないですか!
ああ、喧嘩祭りも今日だったっけ(^_^.)
「鯨の方の鳥出神社です」
「よし、ワシが連れてってやる!」と、ご親切にも道案内をしてくれると言うのです。
ありがたや、ありがたや、感謝感激だったのですが・・・
このおじいさん、自転車から降りてくれないのです。
いくら、ゆるゆる走行とは言え、私は小走りに付いていくしかありません。
「どっから来たんだ?」と問われても、息が切れてまともに答えられない始末の私。


神徳丸(中島組)のハザシの少年

正直、祭囃子が聞こえてきた時はホッとしましたよ、ああ近くまで来たんだなと。
幸い15分ほどで到着しましたが、あと10分走らされたらぶっ倒れていたかも(@ ̄ρ ̄@)
それでも、このご親切には感謝しなくちゃ!
息も絶え絶えに「ありがとうございました」と丁寧に頭を下げると、おじいさんは爽やかに片手をあげて、またゆるゆると戻って行かれました。


神徳丸{中島組)

ところで話は変わりますが、皆さんは四日市市と聞けばどんな町を想像なさいますか?
私が子供だった頃は、光化学スモッグが漂う工業地帯、石油コンビナートの町というマイナスな印象の町でした。
現在は、工業地帯の夜景が美しい町として人気のスポットではありますが、そんな夜景の美しい海辺であっても、当時の面影はほとんど残っておらず、やぱり工業地帯のイメージだけが強くて、その昔、この町が漁業で栄えていた町であるとは、なかなか想像できませんでした。


勢い余って転覆の神徳丸?!

そんな訳で、私には、どうしてこの町に捕鯨の祭りが残っているのかイマイチ、ピンとこなかったのです。
しかし、考えてみれば恵み豊かな伊勢湾に面しているわけですから、その昔は豊かな漁場だったに違いありません。
幕末から明治にかけては、肥料などの海運基地として発展し、明治から大正時代にかけては紡績工場によって大きくなった四日市港は、やがて商工業都市として大きく変貌していったそうです。


神徳丸のハザシが放った銛は見事に鯨に命中

昭和になってからは、軍需産業発展の一翼をにない、戦後は復興の象徴ともいえる一大工業都市に変貌し続けた町なのです。
現在の風景からは想像出来なくても、江戸の時代には長閑な漁村の風景が広がっていたのでしょうね。

さて、話は鳥出神社に戻りましょう。
本日ご紹介するお祭りは、鳥出神社の鯨船行事(とりでじんじゃのくじらぶねぎょうじ)という、四日市市富田地区に伝わる伝統的なお祭りです。



神徳丸対権現丸の練り合い

一般的には富田の鯨船祭り(とみたのくじらぶねまつり)と呼ばれていて、こちらの方が馴染みやすい呼び方ですよね。
しかし、国の重要無形民俗文化財としての名称は鳥出神社の鯨船行事というのが正しいようです。
歴史や由来は後々説明する事として、まずは先ほどおじいさんに連れられてやってきた鳥出神社からの中継といきましょう。
おかげさまで無事鳥出神社に到着したのですが、神社の境内は思いのほか賑わってはいませんでした。

中島組の鯨かぶりのお兄さん

露店屋台も、わずか3軒ほど。
いつもなら、ズラリと並んでいるはずの三脚の放列などまったくありません。
本格的なカメラを携えたカメラマンもほとんどいないような・・・?

どういうことなのでしょう?
今日ご紹介するのは、国の重要無形民俗文化財ですよ。
重要無形民俗文化財のランクとしては最も高い国指定ですよ。
けれど、見まわしてみてもまばらな人垣。
この場にいらっしゃるのは近隣の方々だけの様子です。

権現丸(古川町)

この中部地方に住んでウン十年の私ですが、確かにこの祭りのうわさを耳にしたことも無く、最近まで知らなかったお祭りではありますが、・・・(^_^.)
それにしても、こんなにも観客が少ないとは少々拍子抜けの感が否めません。
前もって、だいたいの流れは勉強してきたものの、ひょっとして、ハズレ?!
つまらないのかも・・・とさえ、勘ぐってしまった私でした。


権現丸と古川町の鯨

しか~し!それはとんでもない間違いでした。
始まると同時に、私は、かつてないほど、その迫力にグイグイ惹きこまれていきましたよ。
もう、興奮です。
シャッターを押す手が止まりません。
空いているので、どの場所からも、どの角度でも自由に撮り放題。
ただ、迫力があるというだけじゃないのです!
見事なまでの気品と優雅さも兼ね備えている完成度の高さ(@_@;)


権現丸(古川町)の宮入り

筋立て(ストーリー)まで、しっかりとあるお祭りなんぞ、そうはありません!
面白くないようだったら適当なところで帰ろうなどど、少しでも侮ってしまった自分を大反省。
何度も言うようですが、国の重要無形民俗文化財が興味深くない訳がないですよね。
絢爛豪華で何とも美しい鯨船山車
その鯨船山車に乗り、美しい衣装に身を包んで采配を振るうハザシと呼ばれる少年の見事な舞い。


権現丸(古川町)のハザシの少年

鯨船山車を左右に揺らし、荒波を表現しながら勇壮に曳きまわす男達
張りぼての鯨を被り、縦横無尽に暴れまくる鯨かぶりの若者。
勇壮な太鼓の演奏に、威勢のよい掛け声、抒情豊かな船唄。
なにをとっても、文句なし。
民話に基づいて進行していくこのお祭りは、筋立てがあり、観る人の目を飽きさせるこは決してないのです。
私がこんなことを言うのも変ですが、よく出来たストーリーと舞台装置、衣装と唄声。



古川町の鯨 対 中島組の鯨

ヘタなミュージカルを遥かに凌ぐ迫力と美しさです。
左右に激しく揺れる鯨船山車で舞うハザシと呼ばれる少年は、腰持ちのおじさんにしっかりと支えられ、荒波をものともせず優雅に舞い続けます。
は海原を縦横無尽に暴れ、ときに鯨船山車に向かって突進していきます。
その舞台となる鳥出神社の境内は、水を撒いても撒いてもモウモウと土煙が舞い上がり、その迫力にいっそう拍車が掛ります。



権現丸の回転


鯨船山車の追いつ追われつの大奮闘は、1時間ほど続き、やがて、追い詰められたが海中から浮き上がった瞬間、ハザシの放った銛が見事に命中するという筋立てです。
無事、仕留めることが出来たことを共に喜び、祝いの唄が歌われ一幕の終わりです。
ここで、この祭りには豊穣を寿ぐ意味があるということが分かりますね。
そして、もうひとつの意味は、後ほど紹介する民話の中にヒントがありますよ。


権現丸(古川町)

ちなみに、この祭りに登場するクジラはセミクジラだそうです。
体長15m程で、重さ60t以上にも及ぶ大きな鯨です。
富田地区には4台の鯨船山車があるそうですが、今年の鳥出神社の宮練りには、北島組の神社丸、中島組の神徳丸、古川町の権現丸の3台が、それぞれに素晴らしい宮練りの演技を奉納されました。
本当に、どの町のどの鯨船山車も誠に美しく、素晴らしい演技でした。



櫓漕ぎの少年

これもひとえに、伝承していくことの大切さをしっかり守ってくださっている富田の鯨船祭り保存会やそれぞれの自治会、あるいは婦人会があってこその祭りと言えると思います。

では、ここでこのお祭りの基となった民話をご紹介しましょう。
簡単に説明は出来ますが、語り口調が素敵だったので、富田鯨船祭り保存会様の資料から、そのまま抜粋させて頂きましたのでご了承ください。


昔々の大昔、伊勢湾でもくじらが取れたころのことやさ。
ある日のことやった。
沖のほうで、何本も水柱がたっかぁ上がったんや。くじらが何匹も現れたんやな。
漁師たちは、網のつくろいもそこそこに、勇んで船を出したんや。
親くじらは、子くじらをかばいながら泳いでいた。
猟師たちは何時間もの追跡に、銛を打てるまで鯨に近づいていったんや。
そして長い時間まっとった。
そしたら、息を継ごうとして、くじらが大きな体を海面から突き出して現れたんや。
親鯨と子鯨やった。ほしたら、その時親鯨は、銛打ちに哀願するように言ったんや。
「私たちは、はるか紀州の海から伊勢参りにやってきました。
せめて伊勢参りがすむまで見逃してください。」
親鯨の目からは大粒の涙が光った。
しかし、銛打ちは、親鯨の背中に、一番銛を打ちこんだんや。
見る見るうちに海は真っ赤に染まった。
苦しみながら、親鯨は、それでも訴えた。
「子供だけは、助けてやってください。」
しかし、漁師たちは、子鯨共々射止めてしもたんや。 
ほしたところが、それからというものは、富田の浜では一匹の魚も網にかからん様になってしもたんや。
浜では、あの親子の鯨のたたりに違いあらへん・・とうわさしあった。
困りきった猟師たちは、親子の鯨の霊を慰めようと、伊勢参りにも行き、
もう二度と鯨は取らんと誓ったりしたんや。
ほんでやっと浜にも前のように魚が戻ってきた。

ほんでも、猟師たちは、あの勇壮な鯨取りを忘れることが出来やなんだんやな。
ほんで年に一度の夏祭りに、その勇ましかった鯨取りを、陸の上でしのぶことにしたんや。
これが富田の鯨船祭りの始まりなんや。



暴れ回る中島組の鯨


いかがですか?
とっても素朴な良いお話ですよね。
もうひとつの意味は分かりましたか?
そうです、豊かな恵みを下さった海への感謝、そして恵みを分け与えてくれた鯨に対する鎮魂なのです。
海の荒くれ漁師は、本当は心根の優しい人達だったのですね。
心が温まる話ではないですか。





北島組の鯨

ここで、またまた話はすっ飛びますが、実は私、子供の頃、捕鯨の本場和歌山県の太地町の近くの新宮市というところに父の転勤で5年ほど住んだことがありまして、案外鯨は身近だったのです。
太地町には「くじら博物館」があって、何度も見学に行った想い出があります。「くじら博物館」に展示されていた鯨の模型や、骨格標本の大きさにびっくりしたり、昔の捕鯨を再現したジオラマ展示をみて、大きな鯨に向かう当時の捕鯨船団の勇壮さに驚いたりしたものです。


射止めた鯨を祝って船尾を持ち上げる


外国の方に聞かれたら怒られそうですが、そういえば給食のメニューにも普通に鯨も出てきましたよ。
飼育されていた小さめのゴンドウグジラも可愛かったけれど、あの頃は鯨を食べてはいけないと考えてもみなかったなぁ~(^_^.)
そんな事を思い出したら、太地町には「捕鯨まつり」みたいなものがあったのかな?と気になりまして検索してみました。
「くじら祭り」なるものは見つかりましたが・・・



神徳丸(中島組)のハザシの少年


う~ん・・・(~_~;)
どうやら、伝統ある祭りではなくて、町おこし的な市民参加のお祭りのようでした。

こういうところが面白いですよね。
ありそうなところに祭りはなくて、ありそうもないようなところに残っている伝統行事。
しかも、陸の上で行われるってのが、なんとも楽しいと思いませんか?

神徳丸

話がどんどんそれていきそうなので、軌道修正しま~す。
では、このお祭りの歴史を少しだけお話して終わりにしたいと思います。
富田の鯨船祭りの起源は、はっきりとは分かっていないそうですが、北島組の神社丸の収納箱には嘉永6年(1853年)という年号の記載や、中島組の神徳丸の解体修理の折にみつかった艫の装飾金具には、文久4年(1864年)の年号が見つかったそうです。
約150年以上の歴史は間違いなくあるということですね。



神徳丸

また、鳥出神社には、江戸時代の御座船の模型が奉納されているそうです。
その御座船というのは、天皇や公家、将軍や大名といった貴人が乗るための豪華船の事でありまして、なんと御座船の模型といわれるモノは、鯨船山車と瓜二つなのだそうです。
その事実から推察したところ、漁村に伝わる漁師の民話とは別に、鯨船祭りは、お殿様の酔狂、あるいは、そこから発生した儀礼的な行事が祭りに変化していったのかもしれませんね。


北島組の青年

そうであれば、あの絢爛豪華な船山車や少年たちの雅やかな衣装にも納得がいきます。
それにしても、雅と勇壮、柔と剛が見事にマッチングしたお祭りです。
いままで私が、ご紹介してきたお祭りに比べると決して歴史は深い方ではないようですが、重要無形民俗文化財としての風格はどの祭りにも後れをとっていませんでしたよ。




富田の鯨船祭りは、天下の勇祭といわれているそうです。
私も “天下の奇祭” と呼ばれる祭りは各地でたくさん観てきましたが、天下の勇祭と称する祭りは、あまり聞いたことがありません。
しかし、その名称に恥じぬ勇壮で優雅な素晴らしい祭りでした。

現在でも年に1~2度、伊勢湾に迷いこんだ鯨の話がニュースで取沙汰されます。
これからの私は、そんなとき必ず、この天下の勇祭、富田の鯨船祭りを思い出すでしょう。

また、日本の素晴らしい伝統文化に出会えたことに感謝です。
そして、よそ者の私にまで少し塩味の冷たいお水をふるまって下さった中島組のご婦人の皆さん、そのお心使いが本当に嬉しかったです、ありがとうございました<(_ _)>

では、今日はこの辺で失礼いたします。
今回も最後まで読んで下さってありがとうございました。
また、次のお祭りでお会いしましょう(^.^)/~~~



2013年8月1日木曜日

天空を真っ赤に染める遠州男子の心意気      -諏訪神社奉納花火祭り  静岡県湖西市-



こんにちは。
今年の夏の天候ときたら、まったく予測不可能な毎日ですね。
短い梅雨の後にやってきた猛暑、かと思えば急激に涼しくなったり、各地で起こるゲリラ豪雨、どう対応していいのやら分からず体調を崩されている方も多いのではないでしょうか。
水不足の地域も多い中、一方では集中豪雨の被害も各地で起きています。
突発的な雷や集中豪雨は、各地に甚大な被害をもたらしていると聞きます。




月並みな事しか言えませんが、被災された方々におかれましては、辛く不自由な日々をおくられていらっしゃると存じますが、一刻も早い復旧復興をお祈りするばかりです。
こんなときに、お祭りの話など不謹慎であろうかとも思いましたが、こんな時こそ皆さんに元気パワーを送りたい、少しでも楽しんでもらいたい、そんな思いで今日も書かせて頂きます。

さて、今日も今日とてお祭り行脚のトンチンカンな私です。
今回ご紹介するお祭りは、夏祭りの華ともいえる花火祭りです。
隅田川の花火大会も、突然の悪天候により開催以来、初の中止となったと聞きますが、その同じ日、私は静岡県湖西市で開催される遠州新居の手筒花火の会場におりました。



おかげさまで、この日この地方の天候は、快晴とまではいえませんでしたが、そのおかげで、涼しい風がそよぐ快適な日となりました。
まさか東京の大花火が突然の豪雨によって、中止となったことなどつゆ知らず、ウキウキ気分で開催時刻を待っていた次第です。

花火大会といえば隅田川の花火大会のように、大輪の花火が次々と夜空にパッと弾け散る光景を思い浮かべる方が多いことでしょう。



老若男女、浴衣姿に団扇なんぞ持って、夜空を見上げ、「タマヤ~!」「カギヤ~」なんてのが、日本の夏の大イベントですよね。
しかし、今日ご紹介する花火は、ひと味違うのですよ。
胸に抱えた花火の筒から出る火の粉をものともせず勇壮に踊り狂う、それが遠州新居の手筒花火なのです。

手筒花火といえば、去年は三河知立の手筒花火をご紹介させていただきましたね。



あれから、すっかり手筒花火の魅力にとりつかれた私は、今回、東海道の関所で有名な遠州新居宿(湖西市)まで足を伸ばしました。
どうしても観たい!と思ったその訳は、去年、三河地方の手筒花火と遠州地方の手筒花火には、微妙に違いがあると聞いていたからなのです。
その違いというのが、花火の最後に底が抜けるハネがあるか、ないかという事のですが、ハネがないからこそ新居の手筒花火は練り歩き、乱舞することが出来るとらしいのです。

確かに三河知立の手筒花火は、最後にドスンと底が落ちて足元に火花が散る場面がありました。
不動の姿勢もカッコいいけれど、手筒花火を片手に乱舞する姿も観てみたいじゃありませんか!


と、いうことで祭りに向かったのは7月27日。
実のところ、当日27日の朝まで、まだ私はこの祭りに行くとは決めていませんでした。
お祭りシーズン真っ只中、我がホームタウン近郊でもいくつかの花火大会が行われますし、遠州の手筒花火が今日行われるとは知らなかったのです。
この日もいつもの週末の朝と変わらず、グダグダとベッドに横になったままテレビのスイッチをオン。



なにげなく、NHKの「ウィークエンド中部」という情報番組でチラッと映ったのが、湖西市の諏訪神社の奉納花火祭りでした。
去年?の祭りの映像が映し出されると、
ボーっとしたいた私の頭がシャキーン!
今日!今日なのかぁぁぁ~!!!
今年は遠州地方の手筒花火を是非みたいと思っていた私です。
これは、なんとしても観に行かずばなるまい
(ー_ー)!!



「祭りが私を呼んでいるぅ~!」ってなことで、単純さと行動力だけが取り柄の私は即刻飛び起きたのでございます。
まぁ、そうは言っても花火なんだし、暗くなってからの開始であるわけですから焦る必要もありません。
静岡県といっても湖西市は愛知県のすぐ東隣みたいな所です。
ゆっくりと出かけても充分間に合うでしょう。
インターネットで開催場所や時刻、周辺の駐車場の情報を調べて、のらりくらりと朝食を食べ、メールチェック、フェイスブックにも顏を出してコメントといいねを押して、いつものように掃除洗濯。




そうこうしても、まだまだ、時間はたっぷりあったのですがせっかちな性分な私です。
駐車場のことやらを考えたら早めに着くのが得策、ということで午後2時の出発となりました。
しかし、早く到着し過ぎても時間を持て余してしまいます。
そこで、高速道路を使うのをやめて、のんびり一般道で行くことに。
たまにはのんびりもいいものです、節約にもなりますしね(~_~;)
で、到着したのが4時。




湖西市の公園にある無料の公共駐車場に車をとめて、カメラ片手に歩きだしてはみましたが、町内の家並みには祭り提灯は飾られているものの、まったくそれらしい感じのひとにも出くわしません。
あれぇ~?まだ、開催時刻にはゆとりはあるけれど、普通なら関係者は忙しく動き回っている時間帯なんだけどなぁ~(・.・?
なぜか、まったく普通に静まり返った町には祭りの気配が感じらないのです。



ネットで調べた結果、開催場所は新居中学校となっていたのですが、方向音痴の私には、その中学校がどこにあるのか、さっぱり分からないのです。
どうしたものかと立ち往生していたら、やっと地元のひと発見!
すぐさま、呼び止めて尋ねたのですが・・・
「開催場所を教えていただきたいのですが」
「ここからだと結構遠いじゃん。30分くらい歩かにゃいかんだよぉ」←遠州弁



「はい、歩きます」
「旧道を歩いてきゃ、祭りに行く人がいるらぁ」←遠州弁
「あっそうですか、どうもご親切に」
って、いったいどこが親切なんじゃ!<(`^´)>
まぁ、仕方がないので、それらしい人を探してウロウロ。
時間もあるので喫茶店でひと休みしながら、場所を教えてもらおうと辺りを見渡しても、喫茶店もなし。
ふぅ~とタメ息ひとつ。



でも、そうこうしてるとカメラを持ったオジサン発見!
この人について行けば目的地に行けそうな予感(o^-')b
なにげない顏で、オジサンの後を付かず離れず歩いて行くこと20分。
少しだけ露店が立ち並んだ狭い通りに行きつきました。
はは~ん、この辺りなのね!ってことで、カメラオジサン追跡終了。
露店には、子供たちが群がり始めています。
夏休みですものね、子供の頃は、私もこんなふうだったなぁ~
お祭りの日には、父から特別小遣いとして200円もらえたっけ。
いまどき200円じゃ何も買えないけどね 、あの頃はなんだかかんだ買えたのよ( ̄◇ ̄;)



店開きの準備をしている露店が並んだ方向へとゆっくりと歩いて行くと、その先に諏訪神社はありました。
こじんまりとした参道の鳥居の脇には、樹齢400年以上と云われる大きな欅の木がそびえ立っています。
まずは、お参りですね。
「今日も遥々やってきました、どうぞよろしくお願いいたします」<(_ _)>
さてと、お参りも済ませた事だし場所だけ確認して、どこかでお茶でも飲んで時間をつぶそう♪


ネットでみた地図によれば、神社のすぐ裏手が開催場所の新居中学校のはずなんだけどなぁ(・_・;)
しかし、神社の横には急勾配な坂道しか見当たりません。
えぇっ~?もしかして、この道?!しかも、鬱蒼とした木に囲まれ少し薄暗いし・・・
しかし、その坂を黙々と上がっていく人達もチラホラ。
まさに心臓破りの坂としか思えないほど急な坂道なのです、ヒーッ!



覚悟を決めてエンヤコラ、やがて視界は広がって中学校が見えてきました。
ここに通う中学生は毎日この坂を上っているのね、こりゃ足腰鍛えられるわな  (@ ̄ρ ̄@)
と、どうでもいいひとり言をブツブツ。
なんとか辿り着いた山頂が校庭で花火会場のようです。
やっと着いたぁ!束の間の喜びが・・・
じぇじぇじぇーっ(@_@;)!
校庭には綱が張られ、その周りには早くも無人のままの脚立と三脚の放列が乱立。
おまけに、あっちやこっちに場所取りのビニールシートがずらりと並んでいるではないですか!


一方方向からしか観客が見られるスペースはないし・・・。
あぁ、なんてこった!
町があんなに静まり返っていた訳は、こういうことなのね。
おそるべし遠州人(ー_ー)!!

どうも私は遠州生まれ(浜松)のくせに、遠州人のやり方は嫌いだ!
物だけ置いて場所取りなんて、ズッコイぞ!
と怒ってみても仕方のない事。



「よそ者は関係ないねぇ」の精神は、遠州の祭りでは、いままでどこへ行っても嫌というほど味わってきました。
これくらいのことを予測出来なかった私の不覚というほか仕方がありません(>_<)
こうとなったら、喫茶店でゆっくりなんてしてる場合じゃありません。
私も場所取りをしなくちゃ!
なんとか、三脚の放列とゴザの間に隙間を見つけて、ドッカリと座り込む作戦に変更です。



遠州方式に従って場所取りしたくても、三脚もビニールシートも持って来ていない私は、この場から離れることも出来ないのです。
日が暮れてお腹が空いてきても、食べ物を買いに動くことも出来ないの(T_T)
嗚呼、なんてこった。
しかし、この日は珍しく涼しくて、過ごしやすい天候であった事だけが救いでした。
そんな中、時々強風も吹きすさんでおりまして、無人の三脚は倒れる、ビニーシートはブッ飛ぶ・・・。
あ~らら、知らねぇっと。
見ていて気の毒な事とは思いつつ、心の中ではムフフのフ。

私ってイジワルかしら(;一_一)




でもね、私といえば延々2時間半、飲み食いもトイレにも行けない状態で、身じろぎもせず地べたに座り込んで待った訳ですよ。
少々イジワル心が生じたとしても許してくださいな。
案の定、やがて花火が始まる時間になるとゾロゾロとやって来た場所取り済みのつもりだった見物人があっちこっちで小競り合いを始めましたよ。
ここは自分たちが取った場所だとかどうとか。




ビニールシートが飛んじゃっていますからねぇ。
そんなこと知ったこっちゃないですよね。
私は関係ない場所にいたので怒鳴られはしませんでしたが、事情も知らず、まったく勝手な人達ですよ。
場所取りするなら、誰か一人くらい番人がいるのが当たり前でしょ、違います?
私のいる場所にも、花火が始まってから悠々と登場の隣りのゴザの持ち主と思われるお方が・・・



ケッバケバの化粧で、足に凄いタトゥーをした品のないオネーサンが「アンタ邪魔だわね」の視線でギロッ・・・
オォッ~コワッ!
アノネ!ワタシャ、アンタの飛んでいきそうなゴザを何度も押さえてあげていたんですけど!
とは、怖くて言えましぇ~ん(>_<)



それにしても睨まれる筋合いはございませんから、ムカッ!
案内アナウスでは「前列の方は座って下さい」を繰り返しているのに、最前列に陣取った三脚カメラマンさんたちは“平気の平左”一切無視を突き通しています。
私はもちろん、固い地べたに座り込んで、隣りの三脚カメラマンの三脚の隙間からの撮影です。
どうやら、遠州人にはマナーが通じないようですね。(これを言うのも3回目かしら)
どうも、遠州に来ると“すったもんだ”が多いものですから・・・
さらっと聞き流してやってくださりませ。
おかげで、どうでもいい話を長々としてしまいましたね、どうもすいませんでした<(_ _)>


さて、文句ばっかり言ってないで、話は大迫力の手筒花火にいきましょう。
今日ご紹介する新居の奉納花火祭りの正式名称は、諏訪神社祭典奉納煙火というのだそうです。
その歴史は300年を超えるであろうと云われていますが、記録として登場するのは、享保10年(1725年)が最初で、当時、新居関所を管理していた三河吉田藩の藩主、松平信祝(まつだいらのぶとき)の記した「座右記抄」には、「新居諏訪大明神之祭礼、来廿六日之花火、翌日御輿渡之儀」と記されているそうです。


なんといっても新居の奉納花火祭りの最大の見どころは、賑やかな祭囃子とほら貝の響きに合せて真っ赤な火の粉が降り注ぐ中を、男たちが乱舞する猿田彦煙火の演技にあります。
猿田彦煙火とは、新居町の中でも上西町地区が独自に行う手筒花火で、宝暦10年(1760年)上西町の東海道で花火を出したのが始まりといわれ、天照大神(あまてらすおおみかみ)が天の岩戸から出られるとき、猿田彦大神(さるたひこのかみ)が、松明をかざし道案内を務めたという伝説を元にして作られた演技だそうです。


 昭和42年(1967年)までは、天狗の衣装と面で猿田彦大神に真似た町衆が、点火された手筒花火を脇に抱えながら大太鼓、小太鼓、ホラ貝のお囃子を従えて上西町の街道を練り歩いたというのですから、さぞや見ものだったでしょうね。
しかし、やはり危険ということで中止を余儀なくされたそうです。
新居の奉納花火祭りには、猿田彦煙火の上西町のほか、仲町、中田町、源太山町、上田町、高見町の6地区が参加します。
それぞれの地区には、受け継がれてきた役割分担と云うものがあり、争い事が起きないように取締(とりしめ)、世話係(せわけ) という役人(やくびと)が仕切って粛々と進行されていくようです。
なにせ、初めて観るものだし、プログラムといったようなものは地元関係者にしか配られていないようなので、私としては進行状況は一向に分からないのですが、



ひとつの演技が終わる毎に代表者(たぶん世話係)が一段高い櫓の上に陣取った紋付の長老(たぶん取締)の元に集まり、「異議なし」とか、やってましたから。

では、お祭りの実況中継に、と進行したいところなんですが・・・ここで、まずお詫びを致します。
実はワタクシ、この祭りのクライマックスともいえる猿田彦煙火の写真は撮れませんでした。


なぜなら、長い待ち時間の間にトイレにも行けず、食事も出来なかったわけでして、プログラムもないので、いつ猿田彦煙火が行われるのかもさっぱり分からなかったのです。
散々我慢はしたのですが、ハッキリ言って、もう限界。
並み居る人波を掻き分けて、やっとのありさまでトイレ直行 (。-_-。)メンボクナイ
一旦、場所を離れてしまえば、もはや元の位置に戻れるはずもなく、かなり後方で人波の隙間からチラっと覗き見ただけで何が何やら分からずで終了の巻でした。



という訳で、空腹と尿意を堪えて観たところまでの話になりますが、お許しくだされ<(_ _)>
まぁ、一番の見どころの猿田彦煙火の演技はみられなかったわけですが、その他の演技も大迫力の素晴らしいものでありました。
いよいよ、奉納花火が始まる時刻が近づくと、それぞれの地区の練り込みが、賑やかな掛け声と笛や太鼓のお囃子を従えて、ぞくぞくと煙火場に入場してきました。
祭囃子はいいですよねぇ~
一気お祭りムードが盛り上がります。
この掛け声ナンダコラセっと言ってるそうなんですが、私にはアッラッセラッセとしか聞こえないのでしたが、まあ、そんなことはどうでもいいか(~_~;)



また、祭り男達の衣装ときたら、とんでもなくカラフル!
赤、、黄緑、黄色、ピンクetc.
なんとも派手なステテコ?にノースリーブの袢纏姿。
カラフルな袢纏の背中には大きく各町の紋が描かれていて、どこの町衆であるかは一目瞭然であるようです。
練り込み隊が勢ぞろいすると、いよいよ奉納花火祭りの開始です。
山開きと称する号砲ともいえる1発の打ち上げ花火(緑星と呼ばれる緑一色の花火)を開始



合図に、煙火場の中に三か所設けられた低い台(ヤマと称される)があり、その上に乗った男達の手筒花火が次々と点火されていきます。
天に向けられた手筒花火が、三つあるヤマからいっせいに火を噴き、降り注ぐ火の粉が夜空を真っ赤に染めていきます。
左脇に手筒花火を抱えた男たちは火の粉を浴びながらも、満面の笑顔で痩せ我慢。


右手をあげてその雄姿をアピールしますよ。
よぉっ!男前!
さっきまで、なんだかんだとプリプリ腹を立てていた私も、そんなことは一瞬のうちに忘れて、もう夢中。
それはそれは勇壮且つ豪快な光景で、観る者を熱狂の渦へといざないます。
煙火場の後方には櫓が組まれ、そこでは大筒と呼ばれる手筒花火の親分みたいな大きな筒を固定して打ち出します。
さすが大筒!火薬も多いのでしょう、手筒より長時間大きな火の粉を高くまで噴き上げます。



そんな大きな火を噴く大筒の横では、練り込みが賑やかに囃し立てます。
すると、飛び散る火の粉の中に威勢のいい男達が飛び込んで乱舞。
男度胸の正念場!ってとこでしょうね。
手筒大筒を繰り返す合間には、打ち上げ花火も夜空に大輪の花を咲かせます。
また、綱火と呼ばれる観客席と煙火場の間を横に走る花火なんかもあって、突然目の前を横切る花火にドッキリもさせられますよ。
長い時間待ったけれど、始まってしまえば、あっという間の大スペクタル!


そして、気がつけば9時近く、さすがに我慢の限界なので席をたった私でしたが、やっぱり猿田彦煙火が観られなかったのは、今でも悔しい限りです。三河知立の手筒花火の時も書きましたが、手筒花火は花火師が作るものでも、花火師が上げるものでもありません。
地元の方(火薬を使うには資格が必要ですので、資格を持った人)が力をあわせて、作りあげるた成果がクライマックスが奉納花火祭りとなるのです。



花火は、あっという間に終わってしまうけれど、危険をともなう火薬詰めの作業に幾日もかけて、やっとこの日を迎えるのです。
諏訪神社祭典奉納煙火は、氏子たちの家内安全・町内安全・天下泰平を祈る祭りです。
火の粉を浴びると無病息災で暮らせるそうです。
最前列にいた私は煙に巻かれるやら、足元にも火の粉が飛んで来るやらで、ほんのちょっぴりアチチの一日でしたが、この日もありがたい縁起をいただけたようです。



煙火保存会の皆様におかれましては、この素晴らしい伝統芸能の技術伝承のご苦労も知らず、最後だけ見て、ああじゃらこうじゃら文句を並べたワタクシメをどうぞお許しくださいませ<(_ _)>

では、今日はこの辺で失礼したいと思います。
今回も、なんだかんだと遠州人の悪口も言っちゃったけど、ちょっとだけ愛想がないだけで、粋で鯔背で一本気なところがカッコ良かったですよ。
ゴメンねぇ~(^.^)/~~~
今日も最後まで読んでくださってありがとうございました。
また、次のお祭りでお会いしましょう!