2012年10月13日土曜日

多彩な芸能と老若男女町内総出の大祭り  -掛川大祭-

獅子舞かんからまち

こんにちは。
いきなりですが、今日はまさに祭りらしい祭り「掛川大祭」のご紹介をいたします。
日本全国が秋祭り真っ盛りのこの時期、お祭りフリークの私としては毎回どこを訪ねるかが思案のしどころなのですが、いまひとつ惹かれる祭りが見つからないでままでいました。
近隣で行われる素晴らしい祭りも数々あるにはあるのですが絞れないままで悩んでいたところ、どうしても見てみたい!と思える祭りを見つけてしまったのです。




私の場合、主にインターネットによってリサーチをするのですが、伝統を重視しながらも結局直感だよりなんですけどね。
おおまかな判断材料は「重要無形民俗文化財」という単語が有るか無いかによるのですが、「重要無形民俗文化財」だからといってすべてが素晴らしいものとは限りません。
思えば数々の空振りもありました(-_-;)
しかし、今回「掛川大祭」を選んだのは「重要無形民俗文化財」という単語に惹かれただけではありませんでした。


案内を読んだ時点で、空振りにはならないだろうと確信が持てたのです。
それは、とにかくこの祭りが見どころ満載であるいうことなのです。
山車もあれば獅子舞もある。奴行列に大獅子。
そう聞けば見逃すわけにはいきますまい。
なにせ、4日間にも及ぶ凄っごい祭りでありますので、どうやっても全部は見ることも出来ないし、紹介することも出来ないでしょうが、そこのところはご容赦くださいませ<(_ _)>

では、前置きはこの辺までとして、この大がかりな祭りをご案内いたしましょう。
朝一番で家を飛び出して、掛川市に到着したのは午前9時半。
市内には早くも交通規制が布かれいたので駐車場探しに少々手間取りはしましたが、それでもなんとか車を置いて歩き出したのは10時頃です。
連休の最後でもあり、祭り最終日でもあるので、それほどの人出はないものと見込んだ私にとっては、まったくの計算違い。


さすが3年に1度の大祭とあって、掛川の街中はこの時間から老若男女市民総出といって間違いないほどの人で溢れているではないですか(@_@;)
そのほとんどの人が法被姿か祭り衣装を着ているのですから、観光客ではなく地元の方に間違いありません。

なんとまあ、掛川市ってこんなに人口が多かったっけ?と思わせるほどの色とりどりの法被姿。
さながら、休日の原宿状態といったようなカラフルさです。



目の前を次々と横ぎっていく屋台(遠州地方では山車ではなく屋台と言います)行列にも目を瞠るばかりです。
屋台自体は2輪の御所車タイプで、そんなに大きなものではありませんが、立派な彫刻が施され美しい刺繍の天幕も見ものです。
38台もあるという屋台が次から次へとゾクゾクと現れるのですから、おのぼりさん状態の私はキョロキョロするばかり。

あっちを見ては写真をパシャリ、こっちを見てはまたパシャリ、切りがありません。
屋台を引く町衆にはそれぞれ揃いの法被がありますが、41町もあると これがまたバラエティ豊かなので見ているだけで祭り気分も高揚します。


そんな法被姿の町衆に囲まれた真ん中あたりに、華やかな時代衣装で着飾られた女の子が数名いる屋台行列を発見しましたよ。
その昔、花街と言われた町なのでしょうかね、まさに“晴れ姿”の少女達、その愛らしさといったら言葉にできないくらいです。
戦前の頃には「衣装祭り」とも呼ばれただけあって、法被に限らず、それぞれの町にはそれぞれの伝統の衣装があるようです。
とにかく見ているだけでワクワクが止まらないのですが、とりあえず祭りのメイン会場となっている掛川城前のお祭り広場を目指し、なんとか辿り着きました。
そこで祭りのパンフレットを貰った私は、その日の行事予定表を見てどう行動するべきか、しばし検討タイム。
やはり、お祭り広場に留まり午後から始まる各町内の余興を見ることが効率的のようです。


そこで早めのランチをとるべく1軒の蕎麦屋に入ったのですが満席。
あきらめて出ようとすると、呼び止められたのです、普通のお客さんに。
「混んでるときは、相席すりゃあいいだよぅ」
懐かしい遠州弁・・・
言い遅れましたがワタクシ浜松生まれの遠州っ子であります。
嬉しくなって 即 お言葉に甘えて、ひとつ空いてる椅子に座らせていただきました。
・・・故郷の 訛り懐かし 蕎麦屋かな・・・お粗末(-_-;)


では、またまたいつものお祭り講座を始めますよ。
掛川祭は、掛川城が今川氏の家臣朝比奈泰氏により築城された約500年前に始まった祭りといわれていますが、はっきりとした資料が残っている訳ではありません。
現在行われている祭りのすべてが、その頃から続いているとは言い切れませんが、どこの祭りでもそうであるように、祭りの姿は時代とともに少しずつ変化するものです。
この「掛川大祭」に於いても、戦国時代から天下泰平の江戸時代とでは経済状態あるいは生活環境といったものが随分と変化した訳ですから、祭りの形態が変化していったとしたも当然であったでしょう。
しかし、そんな歴史の中で約420年前に掛川城天守閣を創建した当時の掛川城主、山内一豊が掛川のまちを造成・構築したことによって掛川宿は栄え、「掛川の祭り」が盛んになっていったのであろうとも言われています。

「掛川大祭」で一番古くから行われている瓦町の余興、県指定無形民俗文化財の「獅子舞かんからまち」を確認できる最古の文献には、宝暦3年(1753年)と記されているそうです。



獅子舞についても、詳しいことは分かっていませんが、掛川城や掛川藩と密接に関わっていた瓦町の栄華を誇るものであることは推察できるかと思います。
「獅子舞かんからまち」のような形態の獅子は「三頭獅子」「三匹獅子」と呼ばれ、関東地方から東北地方にかけて広く見られそうですが、なぜそのエリアから離れてる掛川に残ったのかは解明されていません。
この「獅子舞かんからまち」の舞いについては、関東・東北で一般的に「雌獅子隠し」と呼ばれる場面が中心ですが、途中で側転が入るところが最大の特徴見どころなのだそうですよ。
私もしっかり見てきましたよ、ただし遠すぎる上、障害物も多く側転場面は写真には撮れませんでしたけれど(-_-;)


そして、もうひとつ市指定有形・無形民俗文化財に登録されている獅子舞に紺屋町の「木獅子(きじし)」があります。
残念ながら日程の違いで今回は拝見することが出来ませんでしたが、この「木獅子」の獅子頭は獅子舞の研究者からは400~500年前まで遡るほどの年代物であると言われているそうです。
端的に言えば、現在行われている掛川祭の原型どうであれ、宝暦年間(1751年~1763年)に獅子舞が始まり、嘉永2年(1849年)には現存する最古の屋台が購入されたという事実が残っていることから、少なくとも幕末には現在の祭りに近いものであったことは間違いないだろうと推察されるわけです。。
そして、掛川の祭りがほぼ現在の形になったのは、今から100年以上前の明治時代中期のようです。
「三大余興」のひとつとされる西町の「奴道中」に至っては、その始まりが明治28年の日清戦争祝賀行列の出し物として登場したのが最初とされていますから、祭りとは関係ないところからの始まりで、その後、祭りに組み込まれたとのことです。



華やか物好きな遠州人の大らかさ、あるいは度量の広さとして受け止めましょう。
また、戦前の掛川の祭りは、その優美さや豪華さから「衣裳祭り」とも呼ばれたそうです。
やがては静岡県内屈指の「屋台祭り」となり、現在でも大規模な都市祭礼に成長し続ける「掛川大祭」
祭りらしい祭りのない大都市や新興都市の「市民祭り」的な祭りには興味を持てない私でしたが、そんな祭りでも続けていけば、いずれは伝統になることに気づかされた心地がしました。
歴史と伝統を守った上で成長する祭り、大いに結構としましょう。




では、またお祭りの現場に戻りますよ。
食事を終えて広場に戻った私ですが、もうそこは人、人、人で埋め尽くされていました。
「遅かりし由良之助」←年齢がバレてしまいそう・・・ちょっと古過ぎますね(-_-;)
到底、入り込む隙なし。
ところがドッコイ簡単に諦める裕子さんではありませんよ。
辺りをぐるぐると探し回り、少々遠くてあまり良い位置ではないですが300mmの望遠レンズで狙える場所を確保しました。
実は、
ここでも地元の方にお世話になったのです。



カメラを構えて確かめながらウロウロしている私に、孫を連れた知らないおじいさんが手招きしてくれるのです。
ん?私?なんで?
おじいさんは孫を抱きかかえ、横にちょっとしたスペースを作ってくれたのです。
いいのかなぁ~と思いながらも人を掻き分けていくと、おじいさんが「写真撮るなら、ここが良く見えるだら」と、またもや懐かしき遠州弁で言ってくれたのです。
ありがたき幸せ、もう掛川の人が大好きになってしまいそうですぅ・・・(T_T)





さて、話は実況中継に切り替えて、県指定無形民俗文化財であり、祭りの呼び物“三大余興”のひとつ「獅子舞かんからまち」は、神事ということで建物の2階などから見下ろすことも禁じられ、厳かな雰囲気で行われました。
それでも獅子の側転が行われると拍手喝采、凄い盛り上がりです。
「花幌」を被った可愛い少女たちの行列も見る人の目を奪うばかりです。
その後も「かっぽれ」や「祭囃子」など、次々と各町の余興が披露され観客をまったく飽きさせません。
いよいよ、“三大余興”のもうひとつ「奴道中」が始まると、その華やかさにいっそう拍車がかかります。

衣装も道具も半端なものではありません。


さすが「衣装祭り」の異名を頂くにふさわしい豪華さです。
ちんけな仮装行列とは品格が違うところを存分にみせつけられました。
余興はまだまだ続くのですが、最後の“三大余興”のひとつ「大獅子の舞」が始まるのは午後4時以降ということなので、道路に直座りの体勢に疲れた私は、おじいさんにお礼を言って祭り広場を離れ、屋台の巡行を見に行くことにしました。
どこを歩いていても、どんな路地であろうとも豪奢な屋台に出会えるの祭りです。
なんせ38台もあるのですから、写真を撮っていてもどれがどこの屋台なのかは、さっぱり分からなくなってしまいます。
そして、その屋台を引っ張る町衆は、若者に限らず、ましてや男に限らず、女性や子供、おばさんや老人にいたるまで全員が揃いの法被に身を包み、本当に祭りを楽しんでいる笑顔に満ちていました。

どんな祭りであろうと、あふれる笑顔が多いほど素晴らしい祭りはありません。
この笑顔が、私を祭りに導いてくれるのです。

などと思いながら屋台見物に夢中になっていた私は、結局ウロウロしているうちに「大獅子の舞」は見逃してしまいました。
しかし、今回も早起きして高速道路をひた走り、出掛けて行った甲斐がありました。

帰り道、思う存分祭りを楽しんだ私は、渋滞に巻き込まれながら考えました。
祭りの歴史や伝統ばかり追っていた私ですが、はっきりとした起源などわからなくてもいいのかもしれない。
研究者でもないのですから、年号にこだわる必要もないのです。
いつから始まったのかという事実自体は、.さして重要な問題ではなくて、どういう状況の中でどうやって受け継がれてきて、現在があるのかということが大事なんだと気がついたのです。

それはすなわち、これからの未来に伝統芸能や祭りを受け継いでいくヒントになるのではないでしょうか。
祭りは文化の鏡。


この日の「掛川大祭」のように伝統と一緒に進化もついてくる祭りも、静かな山村に綿々と受け継がれてきた祭りも、形や進化が違えど、もともとは神社の神事として始まったもの。
どんな祭りにもその祭りの持つ個性や魅力がありました。
だからこそ面白い。
益々、祭りの魅力に惹きこまれる私なのであります。

今日も長々とお付き合いいただきましてありがとうございました。
今日はこの辺で失礼いたします。
ではまた、次のお祭りでお会いしましょう(^o^)/

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