2012年8月17日金曜日

山村に受け継がれた念仏おどり -大海の放下-

放下おどり

こんにちは。
盆休みのお疲れを引きずったまま、昨日から出勤という方も多いかと思います。
土曜日からの5連休ということで、海外旅行や家族旅行を楽しんだ方も多いことでしょう。
しかし、大半の方はお盆をご実家で過ごされたのではないでしょうか?
まあ、自分の住んでいるところが実家だという人も少なくないでしょうけど・・・(-_-;)

ご実家が遠方であるという方々にとっては渋滞や混雑の御苦労も伴いますが、懐かしい顏、懐かしい風景が待っていてくれたことでしょう。
なかには新しい家族が増えた方、また、家族を失われ寂しく想われた方もいらっしゃったかも知れません。
昔から「お盆」とは、家族が揃って御先祖様に感謝し、お迎えする日本の“慣習”です。
今日は、その日本の良き習わしである “お盆の行事” をご紹介したいと思います。
“お盆の行事” といっても地方により、その形は様々ですよね。
また関東においては、時期さえ違ったりもしますが、先祖供養ということに於いては同じです。
“お盆の行事” と聞いて、まず連想するのは「迎え火」

火は、すなわち“御霊”を導く目じるしです。
「私たちはここにいますよ、迷わないで来て下さいね」といった意味があるそうです。
また「送り火」や「精霊流し」には、“御霊”が間違いなくが天国に帰って行かれるように道筋を照らす意味があるそうですよ(^o^)b
広い意味で捉えれば「盆踊り」だって、ご先祖様に対する“ご接待”とも言えるでしょう。


前置きが随分長くなってしまいました(-_-;)
では、ボチボチ今回の “お祭り” ならぬ  “お盆の行事”  を紹介しましょう。

今日ご紹介するのは「大海の放下(おおみのほうか)」という  “盆行事”  です。
場所は、愛知県新城市の町はずれ “大海” という山に囲まれた小さな集落。



その小さな集落で、綿々と受け継がれてきた 「大海の放下」
私は、その風変わりな名前を聞いただけで、メラメラと興味が湧いてきました。
こりゃ、一見の価値あり!
ってことで、この日もカメラ片手に車をブッ飛ばして行って来ましたよ。

新城市は愛知県ではありますが、名古屋から車で行くには結構不便な場所でして、高速道路では随分と遠回りになります。
お盆の帰省ラッシュでもあったので、高速道路や主要幹線道路を避け、カーナビで最短距離の道筋を選んだのですが、これがとんでもない山道を選び出してしまいました(>_<)


泉昌寺

「落石注意」のすれ違いも厳しいクネクネした山道を登ったり下りたり、倒木も横たわっていたり、「イノシシ注意」の看板も・・・
ビビリつつも、ひたすら走り続けて2時間半、やっと辿り着いたのは静かな山村でした。
どうにか開始時間には間に合い、会場の「泉昌寺」に行ってみたものの、ひとりふたり地元の方がいるだけです。
どうなってるの???
早すぎたのかしらと、時計を確かめてみたのですが17時です。




ネットの案内には17時開始とあったはず・・・
そうこうしてたら、カメラを担いだ3人組のオジサンが登場。
ひと安心(^o^) 間違いでは、なかったようです。
しかし、オジサンたちは地元の方となにやら話しています。
なにげに傍に近寄っていって聞き耳をたてていたら、どうやら公民館に集まっているとのこと。
私がカメラを持っていたことに気づいたオジサンたちは「ここへ戻ってくるのは8時だってさ、公民館を出発したあと新盆の家々を回るらしいから、公民館に行った方がいいよ。 車はどこに駐車したの?ここは閉められちゃうんだって。駐車場もそっちにあるってさ。一緒に行く?」



「は~い、ついていきま~す」
方向音痴の私には、なによりありがたいお言葉、「渡りに舟」とはこのことです。
小さい集落ですから、公民館も“目と鼻の先”ではありましたが・・・

ではこの辺で、いつものように今回の行事についてのお勉強から始めましょう!


この「大海の放下」と呼ばれる “盆行事” の起源については、はっきりとした記録はありません。
しかし、「放下おどり」に使われていた古い太鼓には、寛政2年(1790年)という書き込みがあることから、少なくとも220年以上の歴史があることは確かなようです。
明治の頃に一旦途絶えたあと、昭和7年に熱心な伝承者により復活、その後また戦争により再び中断されたそうですが、昭和25年に再興して現在に至るそうです。
昭和36年には愛知県の重要無形民俗文化財に指定されたそうですが、私には少々納得がいきません。

なぜなら、これは絶対、国の重要無形民俗文化財に指定されるべき行事だからです。

いままで、たくさん国指定の重要無形民俗文化財を観てきましたが、この「大海の放下」がワンランク劣るとは考えられません!
って、ここで熱く語っても仕方ないので、話は お勉強に軌道修正。
どうも私の話は、あちこちと飛んでしまうのでいけませんね(-_-;)
えーっと、歴史の話は終わったので、次は由来についてのお勉強ですね。
そもそも「放下」とは、なんぞや?ってことを説明しましょう。

最初に「ほうか」とふりがなを付けましたが、正しくは「ほうげ」と読むのだそうです。
元々「放下(ほうげ)」とは、すべての執着を捨て去ることを意味する仏教用語です。



それが、いつしか大道芸の「放下(ほうか)」になり、その呼び名が定着して、今では「大海の放下(おおみのほうか)」が正式名称になったようです。
では、なぜ仏教用語が大道芸に変化したのかについて掘り下げてみましょう。
その昔、高野山の数多い聖(ひじり)たちの中に、一切の執着を捨てて念仏を唱えることに専心した一団がいました。

それが「放下僧」と呼ばれた人たちです。




源平争乱の荒れた時代、多くの僧侶が地方への放浪を余儀なくされました。
僧たちは全国を行脚しながら念仏を唱え布教していった訳ですが、その際、僧は民衆の心を和ませるために都の話や行く先々での出来事や行事を身振り手振りで話したのでしょう。


動乱が収まると、やがて「放下僧」は消え、「放下僧」を真似て民衆を愉しませる「放下師」と呼ばれる人達が新しい芸能としての「放下芸」を披露するようになりました。
「放下師」たちは一団を組み、日本全国津々浦々を廻ったと云われています。
そんな「放下師」を、娯楽の少ない山村では歓待したそうですよ。
以前にもご紹介した、神楽、獅子舞などと同じですね。
しかし、「放下芸」には、
神楽や獅子舞などといった芸のような “外連味” が足りなかったのでしょうな、
消えていく運命をたどっていったのです。
朗々と詠いあげられる物語や念仏も、伊勢笛と呼ばれる横笛と鉦とだけのお囃子も、パンチがないと言ってしまえばそれまでですけど、娯楽を求めた民衆には飽きられちゃったのかもしれませんね。

高万燈

しかし、奥三河のこの地には残りましたよ!
それは、山河美しいこの地の“お盆の行事”として、もっとも似合う形で残ったと言えるのです!

さて、それでは当日のようすに話を戻しましょうね。
公民館前には、地元の方と私のようなカメラを持った人達が合わせて40人くらい集まっていました。

このところ、大きな祭りばかり見てきた私には拍子抜けするくらいの静けさです。



公民館前では丁度、保存会の方が 「大海の放下」についての解説をされていて、「放下おどり」の装束を整えているところでした。
「放下おどり」の装束は、とてもユニークです。
背中に大きな団扇のようなものを背負い、お腹に太鼓を抱えた姿の踊り手が3人と、ササラと呼ばれる白い和紙の飾りがついた棒が16本束になっている道具(ササラ)を背負った人がひとり。
大きな団扇の大きさは、丈が3m幅1.2m、重さは6kgあって、お腹に抱えた太鼓の重量と合わせると10kgを超えるそうです。

その大団扇を脇腹に晒しの布でグルグル巻きにして装着し、太鼓も晒しの布で肩から吊り下げる形で装着するのですが、着る人はもちろん、着せる人も汗だくの作業です。
興味深かったのは、菅笠に手甲、脚絆姿であることです。
私には、昔の旅芸人の面影を残しているように思えました。
ちなみに、大団扇には家紋のような紋様が描かれていますが、この紋様の根拠については不明だそうです。



保存会の方による解説や新盆を迎えるお宅への順路の説明が終わると、「放下おどり」の一行は新盆を迎えられたお宅へと出発します。
「南無阿弥陀仏」と書かれた高万燈をもった露払いを先頭に、紋付羽織袴姿の総代、笛や鉦の囃子方、大団扇とササラの踊り手、提灯を持った歌い手と続く行列は、白と黒のみの装束で構成されています。
“お盆の行事” にふさわしい色合いの装束で、道中囃子は物悲しく、亡き人を偲ぶかの響きを奏で、狭い路地を抜けて一軒目のお宅へ。



新盆を迎えられたお宅では、亡き人の祭壇に遺影を掲げ間口に整え、迎え火を灯し静かに待っておられました。
特別な掛け声や合図もなく、静かに一礼することから始まった「放下おどり」は、早い動作や大きな動きはありません。
大地に足を踏ん張り中腰でシコを踏むような動作、太鼓は敲くというより「突く」ようにして打ちます。



これには意味があるそうで、“邪鬼を踏みつけ悪を突く”のだそうです。
横笛数本と鉦ひとつだけのお囃子は憂いを帯び、ゆるやかなテンポにあわせて踊る姿は、勇壮というより荘厳な儀式といった趣きです。
哀愁に満ちた節回しの譚歌(一般に広く伝誦された物語歌謡)や念仏も、その昔の「放下僧」の姿を彷彿とさせます。

この日も時間の都合で、最後まで見届けることは出来ませんでしたが、私にとってこの上ない満足と充実感を与えてくれました。

長い年月の間に廃れてしまった「放下芸」
それは、いままで私が見学した地方に残る数々の伝統芸能の中に於いても、もっとも興味深く、稀であり、先祖を敬う美しい伝統芸能でした。
これが、国指定の
重要無形民俗文化財でないのが不思議でなりません。
訪ねる人とて余り多くはない山間の伝統行事ではありますが、私にとって「お盆」とは、こういうものなのだと再認識させてくれました。
日本の美しい伝統を守ることの重要性、先祖を大事に敬い続けることの意味。

あらためて、この美しい日本の “盆行事” に出会えたことに感謝です。
今日も、最後まで読んでくださってありがとうございました<(_ _)>
まだまだ、私は地方に残る伝統を掘り起こしますよ。
頑張るぞ~!


2012年8月9日木曜日

日本一やかましいお祭り  -桑名石取祭-

こんにちは。
毎日、ウンザリするほど暑い日が続きますね。

家から一歩出ればセミの大合唱、「あ~うるさい!余計に暑く感じるよ」なんて 嘆いていませんか?
今日は、セミの声なんて ほんの“ささやき”にしか聞こえないような
“日本一やかましい祭り” をご紹介しますよ。
“日本一やかましい祭り” といわれる祭り、それは「桑名石取祭(くわないしどりまつり)」のことで、毎年8月の第1土曜日・日曜日に行われる「桑名春日神社」の祭礼です。




この祭りも また、「天下の奇祭」というキャッチフレーズが付くのですがね、私としては“日本一やかましい”というフレーズに興味をそそられた訳なんですよ。
そのうえ、国指定重要無形民俗文化財と聞いたら、何をおいても見に行かねば気がすまない性質でして(^_^.)
私が訪れたのは「本楽」と呼ばれる日曜日。
この日も 真夏の太陽がガンガンに照りつける猛暑日です。
炎天下の外出は、苦手でちょっとだけ気持ちが萎えます(-_-;)
しかし、そんなことは言ってられません。
なんとしても
“日本一やかましい祭り”を見に行かねば!  
首にタオルを巻いて、この日も気合を入れてGOです!




桑名市は、私の住んでいる愛知県のお隣の三重県ではありますが、愛知県寄りに位置するので、それほど遠い訳ではなく高速道路で1時間も走れば行けるところです。
祭りのパンフレットには 祭りの開始は午後1時とありますが、山車の曳きまわしが始まるのは午後4時半からということなので、どうやら「夜祭り」のようです。
ならば少し涼しくなってから行こうかな・・・3時に出発すれば間に合うな、なんて思っていたけど、やっぱり少々駐車場が心配。
結局、2時に出発することにしました。
順調に到着し、用意された小学校の無料駐車場に車を駐車。
まだまだガラガラに空いてます。



ちょっと早すぎたかしら(^_^.)
それでは桑名の町を散策でもしましょうと、歩き出したのが午後3時、しかし、とにかく暑い。

山車の集合している場所までは、そんなに遠いわけじゃないのだけど、もはや汗だくです。
どこかで涼まないことには熱中症にもなりかねない、ということで喫茶店を探し求めて、汗だくで歩いている途中に「石取会館」という、この祭りの資料館を見つけたました。
これはラッキー! ひと休みしようと入ってみれば・・・
私と同じように暑さに負けた多くの先客で満員御礼、椅子は満杯(-_-;)


思わずタメ息、汗だくの私を見て、受付の方が気の毒そうにウチワを差し出してくれました。
「アリガトウゴザイマス」 ・・・(T_T) 
諦めてトボトボ歩きだし、やっと見つけた喫茶店で、厚かましくも一時間ほど粘りましたが、アイスコーヒー一杯で いくらなんでも陽が沈むまで居すわる訳にもいきません。
気合を入れなおし、店を出て歩き出すと遠くからドンチャラドンチャラ賑やかな音が聞こえてきました。
「なんだ、もうこちらに向かっているんだ」と思い、周りを見回してみたものの見物の方もそう集まってはいません。



そこで、日陰に腰掛けて“見どころマップ”を広げて確認、間違いなく山車が通るルートです。
見物人も少ないし、ここで待っていようと決めて座り込んだのはいいけれど、いつまで待ってもドンチャラドンチャラが聞こえてくるだけで、いっこうに山車の姿は見えてきません。
ドンチャラドンチャラの音は次第に大きくなり、近づいて来ている気配はするのですが、いつになったら姿を現すのでしょう?



春日神社

それでは、山車を待つ間に「石取祭」の歴史を辿ってみましょう。
先ほど、この祭りは「桑名春日神社」の祭礼といいましたが、この「桑名春日神社」というのは俗称で、本当は「桑名宗社」というのが正式名だそうです。
「桑名宗社」とは「桑名神社」と「中臣神社」の両社をあわせた名称であり、古来から桑名の総鎮守として崇められてきました。
この神社の歴史は古く、平安時代の記録帳にまでその名を遺しているそうです。



しかし、どうして「春日神社」と呼ばれるようになったのでしょう。
どういう経緯で「春日神社」になったのかは分かりませんが、永仁四年(1296年)に「奈良春日大社」から「春日四柱神」を勧請合祀してから「春日神社」と呼ばれるようになったと記されているそうです。
とにかく壮大な神社であったらしく、織田信長や徳川家康も神領の寄進をしたそうですよ。
また、本田忠勝・松平定綱などの歴代桑名城主から手厚く加護された「春日神社」は、その後の激動の明治時代や大正時代もくぐり抜け、広い境内を誇ったそうですが、昭和20年の戦災で全て消失してしまいました。
現在の社殿は、規模を縮小することにはなりましたが、戦後 氏子の深い理解と努力によって再建されたものだそうです。



では、お次に「石取祭」の成り立ちについてお話しましょう。
そもそも「石取祭」とは、なんの祭り?ってことなんですけど、諸説あって、はっきりしません。
元々、桑名神社の大祭である「比与利祭」の中の一神事であったのが、宝暦年間(1750年代)に分かれて独自の祭りになったとは伝わっています。
しかし、それが どういった神事だったのかが 諸説に分かれるところなのですが、「比与利」というのは、禊祓をした神官たちが石を選ぶ時にヒョウリヒョウリと笛吹き鳴らしたことからそう呼ばれるようになったのとあります。


では、なぜ石を選ぶ必要があったのでしょうか?
石占い説、社地修理説、流鏑馬の馬場修理説と、まあ いろいろありますが、とにかく石を選び それを運ぶ神事であったのでしょう。
しかし、どうして「比与利祭」が「石取祭」に、ヒョウリヒョウリが ドンチャラドンチャラ になっちゃったのかしら?
その辺のことは さっぱり分かりませんが、どうやら「音」というのがこの祭りのキーワードであるような気がします。



これは、私の勝手な憶測で、そんなことはどの文献にも書かれてはいないようですが、音を打ち鳴らすことによって “邪気を追い払う” というようなことではないでしょうかね.。
まったく根拠のない推察ですけど・・・(~_~;)
まあ、私の憶測なんてどうでもいいですけど、桑名石取祭保存会のホームページには“400年の歴史”とありますから、とにかく伝統を誇る祭りであることは間違いありませんね。





さて、話は祭り当日に戻ることにしましょう。
聞こえてくるドンチャラドンチャラを待つこと1時間半、やっと一番山車が現れました。
石取祭においては、山車のことを祭車と呼ぶようなので、ここからは祭車と紹介しますね。
祭車は小振りで、3輪の御所車タイプです。
前方にいる3~4人で引っ張っているだけですから、そんなに重量はないのでしょう。
電線に引っかからないように提灯柱を折りたたむ役目の人が2人乗っていますが、3輪なので安定も良いし、方向転換も簡単に出来そうな形です。


前方の12張の提灯が吊るされた柱が立てられ、後方に積まれた太鼓と太鼓の両脇に吊り下げられた鉦(4個~5個)をドンチャラ打ち鳴らしながら巡行していきます。
提灯の柱の代わりに人形を立てている祭車も2~3台ありますが、ほとんどは提灯タイプです。
後方の太鼓の上には立派な織物の天幕がありますが、止まって叩き出し(たたきだし)をするときのみ掲げられます。
祭車のほとんどは、昭和の時代に造られたものですが、どの祭車も美しい彫刻が施され、とても優美です。




無塗装のもの、黒や朱の漆塗りされたもの、中には輝くばかりの貝蒔絵が施されたものまで、祭車の装飾はそれぞれ違いますが、基本的形や大きさは どの祭車も同じようです。
しかし、この祭りにとって祭車も町の自慢ではあるのでしょうが、その美しさを競うことより重要なのは、若衆の勢いなのではないかと私は感じました。
若衆たちは、交代で途切れることなく太鼓を敲き、鉦を打ち鳴らし続けるのです。
今年参加した祭車の数は38台。
その38台が、一斉にドンチャラ、ドンチャラ打ち鳴らし続けるのですから、そりゃもう賑やかです。


いや、賑やかと言うより、やっぱりやかましいです!
太鼓と鉦だけで、ほかに お囃子や歌が入るわけではなくて、ただただ ドンチャラ、ドンチャラ、いたってシンプル打楽器だけの構成。
しかし、その単純なリズムの繰り返しが、かえって馴染みやすくもあります。

それに若衆たちの掛け声まで加わると このうえなくうるさいのですが、慣れてくると それが決して嫌じゃないから不思議です。


やがて提灯に灯がともり、このドンチャラにも耳馴れ、私も祭り気分にノリ始めた頃、地元の方たちがぞくぞくとやってきました。
そうなのか(゜o゜)
祭りはこれからが、本番なのね。
そういえば、街中をウロウロしていたのは、私のようにカメラをぶらさげて歩いているオジサン・オバサンばっかりでした。



駐車場もヤケに空いてたし、「石取会館」にいたのもカメラマンばっかりだったような・・・。
それにしても、時間はもう8時半を回ってます。
こんな時間からなの~(@_@;)
いったい、この祭り何時までやっているのだろう???
私は、38台ある祭車の内、まだ18台しか見ていません。



全部見て帰りたいけど、とてもじゃないけど無理みたいな予感。
ということで、10時頃まで頑張ったけど、ボディーガードもいない私は夜中まではつき合いきれません。
仕方ないので、後ろ髪を引かれつつも帰途につきました。
帰りの車の中、普段ならCDでも聴きながら運転しますが、この日の帰り道、私の頭の中では ドンチャラ、ドンチャラがずーっと鳴り響いていました。


そして自宅に到着し、シャワーを浴びてベットに潜り込み眠りにつくまで、そのドンチャラは続いていたけど、なんか楽しかったなぁ。
“日本一やかましい祭り” 「石取祭」は、本当に “やかましい” 祭りでしたよ。
伝統があって、威勢もよくて、揃いの法被もカッコよく、地元の方々もほとんど浴衣姿。
それぞれの町の人達が、本当に大事に守ってきたお祭りなんでしょうね。
いやぁ~ 良い夏祭りでした(^o^)
私の “もう一度見てみたいお祭りリスト” に加えたい祭りです。


もし、このブログ読んで下さって、来年はこの祭りを見物に行こうと思ったみなさん、到着時刻は陽が落ちてからで充分間に合うので、ゆっくりとお出かけくださいね。
ちなみに私が帰る頃、駐車場には入庫待ちの車が行列をなしていましたけれど、ね。
では、この辺で失礼いたします。
本日も、読んでくださってありがとうございました<(_ _)>


2012年8月1日水曜日

勇壮な武者絵の万燈が乱舞する  -刈谷万燈祭-

広小路 (右)弁慶と牛若丸
こんにちは。
暑い暑い熱帯夜、ロンドンオリンピックでの熱き戦いから目が離せず、寝不足気味の方も多いでことでしょうね。
そんな暑い日に、私は熱い祭りに出会いましたよ。
今日ご紹介するのは、愛知県刈谷市の「刈谷万燈祭(まんどまつり)」です。
キャッチフレーズは“天下の奇祭”なんですが、この“天下の奇祭”と呼ばれる祭りは日本中にいくつあるのでしょうかね。
私が思うに「刈谷万燈祭」は“奇祭”と呼ぶほど変わった祭りではなかったように思うのですが(-_-;)
東陽町山車回し

いえいえ、決してけなしているわけではないのですよ。

さしずめ、私だったら“奇祭”ではなく、“気祭”あるいは“喜祭”と呼びたいなぁ~などと勝手に思ってしまったわけでして、それくらい気合の入った歓喜のお祭りだと感じたのです。
なんてったって、若衆の勢いが凄いのです。
気温も半端なく暑いですが、それ以上に若衆の心意気も熱い!
暑い熱い夏祭りに、観ている私たち観客も否応なく巻き込まれていくこと間違いなしの迫力に圧倒されてしまうお祭り、それが「刈谷万燈祭」です。



銀座 鞍馬山遮那王と大天狗


灯りの祭りですから、夕方から始まる祭りなのですが、前日の駐車場探しに懲りた私は早めに刈谷市に到着しました。
すんなり最寄の駐車場に車を駐車し、メインとなる大通りに直行しましたがまだ静かなものです。
とりあえず、この祭りの祭祀である「秋葉社」にお参りに行ったのですが、ここも静かなものです。

こじんまりとした「秋葉社」には、祭りの気配はすれどもあまりひとけもありません。

刈谷 秋葉社


あれ?間違っちゃったかな?と思いつつ歩いていると、ボチボチ露店などを設営をしている場所に行きつきました。
子供たちは走り廻っているけれど、あまりお祭りらしさも感じられません。
そこで、また街中を散策することにしたのですが、暑くてかないません。
熱中症になっても困るので、やっとみつけた喫茶店で涼むことに。

寺横町 連獅子


アイスコーヒーを飲みながら、カメラをいじっていた私に、ひとりの女性の方が声を掛けてくださいました。
「お祭りを見に来たの?どこから?」
「はい、名古屋から」
そう答えると、いろいろ祭りのスケジュールについて詳しく教えてくださいました。
その方は、どうやら商工会の方のようで、この喫茶店で打ち合わせをなさっていたようです。

まだまだ、祭りの開始の時間まで2時間もあり、どうやって時間を潰そうかと思案していたところ、話を聞いていた喫茶店の奥さんが「暑いから、ゆっくりここで待っていればいいよ」と言ってくださるではないですか。
なんとまぁ、ありがたいお言葉!
お言葉に甘えて、涼ましていただくことにしました。


司町 ヤマタノオロチ




とはいえ、ただ甘えるばかりでは申し訳ないので、スパゲッティー(ここでは決してパスタとは言わない)を注文して売り上げに貢献(*^^)v
そうこうするうちに、喫茶店の前を賑やかなお囃子とともに万燈が通り過ぎていきました。
いよいよかな?
喫茶店の奥さんにお礼を言って料金を支払い、大通りにいってみると、そこには武者絵をかたどった万燈がズラリと並んでいました。
まだ明るいので万燈には灯が入っていませんが、なかなか壮観な眺めです。

司町の山車回し
いつの間にやら、今までどこにいたのだろうと思えるほどの法被姿の若衆であふれかえっている大通り。
やがて、その法被姿の若衆が太鼓を載せた小さな山車を中心に集まり、太鼓を敲きながら気勢を上げ始めました。
まあ、その威勢のいいこと!
こう言っちゃ失礼かも知れませんが、お祭り騒ぎの馬鹿騒ぎ!
この日の朝方「尾張津島天王祭」の典雅な“朝祭”を見学してきた私には、その優美な時代絵巻とは正反対のこの祭りに、ただただ唖然。
思わず、なんじゃこれ~(@_@;)
しかし、やがて夕闇が訪れて万燈に灯が入ると、そのお馬鹿騒ぎも一変します。
新栄町 濃州穴間山中ニ山鮫ヲ打ツ


勇壮な 「刈谷万燈祭」 がいよいよ始まったのです。
さっきまで、ただ馬鹿騒ぎの若者だと思っていた若衆が、代わる代わる重さ60㎏もある万燈をひとりで担ぎ、笛や太鼓に合わせ乱舞する姿は力強く、勇壮なのです。
ごめんなさい、馬鹿騒ぎなんて言っちゃって、なにも知らないワタクシが悪うございました(-_-;)

申し訳ないので、ここいらで祭りの歴史などをご紹介しましょう。
「刈谷万燈祭」 は、前回ご紹介した「津島天王祭」と同日、7月の第4土曜日・日曜日に行われた祭りで、愛知県の重要無形民俗文化財に指定されています。
その起源は、安政7年(1778年)といわれています。


広小路五組 山車回し
その根拠は古文書「刈谷庄屋留帳」によるもので、安政7年「秋葉社」の祭礼において、笛や太鼓とともに万燈が登場したと記載されているためで、もっと以前からあったとも思われますがこの年を起源としたそうです。
と、いうことは230年以上の歴史がある祭りということですね。
秋葉の神といえば火伏の神様ですから当然、火難防除・町内安全を祈願するお祭りであるわけですが、一節には「雨乞い」の祭りでもあるといわれています。
この祭りの見どころである美しく彩色された武者絵や歌舞伎絵をかたどった万燈は、それぞれの町内の手作りによるもので、およぞ3ヶ月ほどの時間を費やして制作されるそうです。
広小路 川中島


万燈の大きさは、高さが約5m、幅は約3m、その重さ60㎏にもなるそうです。
骨組になる木材に竹を組み合わせて紐で結び、和紙を張って彩色するといった手の込んだ手順によって出来上がる万燈は、町民が力を合わせて制作されるのです。
それによって、より結束も固まるというものですよね。
近年では、秋葉社の氏子町7組(広小路・新栄町・銀座・司町・寺横町・東陽町・広小路五組)に加え、地元に拠点を置く企業アイシン精機や地域グループの参加もあり、ますます勢いのある祭りとなっているそうです。


司町の子供万燈


また、この勇壮な祭りにも多く女性が参加するようになり、祭りは一層華やかになりつつあります。
まあ、さすがに60㎏の万燈を担ぐ娘さんは見かけませんでしたが、近いうちに万燈を担ぐお嬢さんが現れるかもしれませんね。

さて、お祭りの実況中継に戻りましょう。

なにも「刈谷万燈祭」 は、大人ばかりの祭りではありませんよ。
各町内には、子供が作った万燈も登場します。
小振りではありますが、子供たちの万燈も決して大人の万燈に負けてはいません。
低学年の子供の万燈は、実に可愛らしくキャラクターをかたどったもの。

高学年の子供の万燈は、大人の万燈の4分の1くらいの大きさのものですが、立派な武者絵が描かれているものもありましたよ。
いよいよ万燈に灯が灯されると、それぞれの町の万燈が順番に「秋葉社」の境内へと向かいます。
そこで万燈の奉納舞が行われるのですが、狭い路地を通り抜け、あまり広くはない「秋葉社」の境内で行われる奉納舞は、狭いからこそ余計に迫力あるものとなります。
やがて、大通りに戻った万燈は、一斉に万燈回しの競演に至るのだそうですが・・・。
前日からのハードスケジュールの私は疲労困憊です(>_<)
うしろ髪を引かれながらも、この辺で引き上げることにしました。

それにしてもパワーあふれるこの祭り。
最初は激しすぎて気おくれしてしまった私には馴染めませんでしたが、徐々にその迫力に巻き込まれていきました。
帰る頃には、夏祭りはこうでなけりゃ!ってなもんで、車ゆえにビールも飲めない悲しさを味わいましたよ<(`^´)>
次にまた、この祭りに行くときがあれば、運転手つきか電車で行こうと心に誓った私なのでした。
お粗末<(_ _)>