2012年7月30日月曜日

500年の雅を今に伝える川祭り  -尾張津島天王祭-

まきわら船
こんにちは、今日も暑かったですね。
この暑い夏の真っ盛りに 私の住む東海地方では、最も有名で荘厳なお祭りが行われます。
それが、 「日本三大川祭り」のひとつに数えられる「尾張津島天王祭 です。
「尾張津島天王祭」は、約500年の歴史と格式を誇る「津島神社」の祭礼であり、あらゆる災い、飢饉や疫病から民を守り、荒ぶる神々の魂を鎮め、一年の無事を祈願する祭りでもあります。
織田信長も愛でたといわれるこの祭り、その
華麗で絢爛な祭りを皆さんに紹介しないわけにはいきません。

どんな酷暑にもめげず、今回も車を飛ばして行ってきましたよ(^o^)
しかも、なんと2日も続けて通ったのだから、この熱意を褒めてやってくださいよ。
2日続けて通ったのには、理由があります。
毎年7月の第4土曜日と日曜日に行われる「尾張津島天王祭」ですが、土曜日に行われる「宵祭」と日曜日に行われる「朝祭」があるのです。
「宵祭」と「朝祭」とでは、まったく趣きが異なるので、その両方をご紹介しなくては
「尾張津島天王祭」は語れないと思ったのです。

「尾張津島天王祭」で有名なのは、365個の提灯を掲げた「まきわら船」が天王川をゆく幻想的な「宵祭」の方ですが、私としては翌日の「朝祭」も、ぜったい見逃せないほどの魅力があると思ったのです。

では、1日目の「宵祭」の紹介から始めましょう。
「宵祭」ですから当然夕刻から始まるわけですが、なにせ、この地方では最も人気のあるお祭りですから駐車場確保のために5時に自宅を出発しました。
祭りのクライマックスとなる「出船」の予定時刻は午後9時です。
自宅から、高速に乗れば1時間で行ける距離ですから、そんなに慌てることはありません。
5時出発でも充分間に合うはずなどと考えていた私が間違いでした。
特別な渋滞などもなくスムーズに到着したのですが、その時刻には、もはや会場となる天王川公園付近の駐車場はどこも満杯。

参りました(>_<)
会場の周囲をグルグル廻りましたが、結局会場付近では駐車場を見つけることが出来ず、会場整理の方に教えて頂いた、かなり離れた場所にある文化会館に駐車して歩くこと40分。
夕刻だというのに一向に下がらない気温、微風すら感じられない猛暑に汗まみれでようやく辿り着いた会場は物凄い人出、思わずタメ息が出ちゃったけれど、ここまで来たからには頑張らねば!

会場となる天王川公園の丸池の周囲には、有料の桟敷席が設けられています。
また、有料の観覧船も出ています。
料金は知りませんが、とってもお高いとは聞いたことがあります。
「いいなぁ~」あんなところで見られたら・・・羨ましいですよ。
しかし、別に桟敷席じゃなくても、どこからでも見ることはできます。
取りあえず地元の友達から聞いていたビューポイントに向かうことにしましたが、なにせ初めて行ったところなんで、さっぱり分かりません

池の周囲を歩き回り、やっとそれらしき場所に辿り着きました。
なぜ分かったかと言うと、そこにはカメラマン軍団の三脚がいっぱい立ってましたからね。
当然、もう入り込む余地はありませんから、少し離れた場所で待機することにしました。

「宵祭」の見どころは、なんといっても提灯を揺らしながら、川面を滑るように滑らかに進んでゆく幻想的な「まきわら船」の巡航です。
どこもかしこも人だらけではあるけれど、その多くの見物客がその時を今か今かと待っています。
しばらくすると賑やかな花火も上がり、いっそうの高揚感搔き立てます。
やがて、「まきわら船」が会場に向けて出発したとのアナウスにカマラマンたちが一斉にカメラを構え始めました。
私も少し緊張しながらカメラを構えていると、来ました!

丸池へと続く天王川のとカーブをゆっくりと曲がって現れた「まきわら船」。
その姿の優雅で美しいこと!
私は、しばしシャッターを切ることさえ忘れて見惚れてしまいました。
もう、写真なんかどうでもよくて、ただただ眺めていたいほど美しいのです。
ゆらゆらと川面に照らし出された提灯の光が幻想的で、お囃子の美しい笛の音にうっとり聞き惚れ、典雅な時代絵巻にすっかり夢見心地に陥ってしまった私。
私の撮った写真なんかでは、この素晴らしさを伝えることなど到底無理のような気がします。

しかし、そうであってもなんとか皆さんにお伝えしなければ!
やっと我に返った私は、夢中でシャッターを切り続けましたよ。
お粗末な写真で申し訳ないので、ここいらで
「尾張津島天王祭」の「まきわら船」についての解説をしておきましょう。

まきわら船とは、二隻の船を繋ぎ、中央に真柱(まばしら)を立てその周りを竿のついた提灯で半円形に装飾された船のことで、竿を突き立てるところが巻藁で出来ているため、「まきわら船」と呼ばれています。
真柱に取り付けられる提灯の数は通常12個、一年の月数12か月を意味します。
けれど、今年は13個。その訳は、今年が旧暦の閏年にあたるからだそうです。
半円形に形作った提灯の数は365個、一年の日数を意味します。


津島神社
その他に取り付けられた提灯の数を合わせれば1艘につき約500個もの提灯が灯されるのです。
このような豪華な 「まきわら船」 「尾張津島天王祭」では登場します。
「まきわら船」の提灯が水面に映える景色は優雅そのものです。
間違いなく、国重要無形民俗文化財に値する素晴らしい祭りです。
いままで、どちらかと言うと素朴な祭りが好きだった私も、今回は文句なしに魅了されてしまいました。
この日「宵祭」の余韻に酔いながら、夢見心地で家に辿り着いたのは午後11時を回っていました。


「宵祭」の美しさにすっかり魅了されてしまった私は、興奮してなかなか寝つけませんでしたが明日の「朝祭」に備えて、この日は撮った写真すら見ることなく、すぐに休みました。

さて、2日目の「朝祭」の紹介の前に、このお祭りについての歴史をお話ししましょう。
「尾張津島天王」の始まりについては、資料が乏しくはっきりとした年代は分かりません。

しかし、ある記録によると大永2年(1522年)には、「車楽船の置物人形」という言葉が記されており、当時すでに現在の祭りに近い形の祭りが行われていたと思われます。


また、津島の古い記録「大祭筏場車記録」には、弘治4年(1558年)に織田信長も一家揃って、この祭り見物をして大いに楽しんだと記されているそうですよ。

当時の津島は、伊勢湾に注ぐ天王川を有する尾張最大の湊町であり、尾張と伊勢をつなぐ商業都市でもありました。
江戸時代の後期には土砂の堆積が進み、もはや湊町の機能を持たなくなった天王川でしたが、その後も尾張藩からの手厚い庇護を受け、絢爛豪華な祭りとして日本国中にその名を知らしめましたそうです。
あの「東海道五十三次」で知られる浮世絵師歌川広重も「六十余州名所図会」で、この祭りの「宵祭」を描いていますよ。


そして、一夜明けて2日目。
目が覚めたのは6時半、8時半には始まる祭りに遅れてはならじと、この日もコンビニで買ったパンをかじりながら飛んで行きました。
昨日の経験から、最寄の駐車場をチェックしておいたのでスムーズ駐車して、「車楽船(だんじりぶね)」の車河戸(組立池)に直行しました。
そこには早くも、昨日とはガラリと姿を変えた車楽船が待機していました。
その高さは、優に8mはあろうかと思われます。



豪華な刺繍の施された幕に赤白の梅の花で彩られた優美な「車楽船」。
下段には、お稚児さんや囃子方らが乗り込む御殿があり、その上段に能人形が飾り付けられています。
なんと美しいことでしょう!
昨日の「まきわら船」が、装いを一変して「車楽船」になるわけですから、夜を徹しての作業であったことを窺い知ることができます。
それを思うだけでも、伝統の重み、町衆の意気込みがわかりますよね。



しかし、あまりにも「宵祭」が有名なせいか、「宵祭」に比べて「朝祭」を見学にいらっしゃる方は、かなり少ないのにも驚きました。
私も、今回初めて「朝祭」があることを知った人間ですから、偉そうなことは言えませんが、これほど優美な「車楽船」を見にいらっしゃらないなんて凄く残念です。
夕闇に浮かぶ「まきわら船」が素晴らしいのはもちろんですが、池に浮かぶ「車楽船」もまた、一幅の絵巻物を見ているように絢爛豪華でしたよ。
その名のごとく「朝祭」なので、午前中だけで終了してしまうお祭りですが、「宵祭」と合わせて、ぜひ「朝祭」もみてもらいたいなぁ~と考えつつも家路に急ぎました。




なぜなら、この日はどうしても見たかった、もう一つの「夜祭り」があるからです(*^^)v
まあ、それは次回のお話として、暑さでバテバテではありましたが、気力で通った2日間。
私は、この東海地方でこれほど豪華絢爛で優美なお祭りを見たのは初めてでした。
そこには、浮かれたお祭り騒ぎなど微塵もなく、粛々と荘厳な儀式としての祭りを見ることができました。
楽しい祭りも大好きですが、このような荘厳な祭りに出会えたことも、私にとってはとても幸せなことです。

500年の伝統を今に伝える川祭り、「尾張津島天王祭は、本当にみなさんにも、ぜひ見て頂きたい祭りです。
この地にゆかりのある人間でもなんでもありませんが、紹介できるだけでも誇りに思える、そんな祭りでした。 
今日も読んで下さってありがとうございました。
次回は、超~威勢のいいお祭り騒ぎをお伝えしま~す。
では、この辺で<(_ _)>


2012年7月22日日曜日

巨大な鯛が練り歩き、海をゆく  -豊浜 鯛まつり-


こんにちは。
いきなりですが、どうです?
この迫力満点のデッカイ鯛!

まさしく、めでたい!目出鯛(@_@;)でしょう。
私は昨日、このデッカイ鯛のお祭りに行ってきましたよ。
東海地方は梅雨が明けて猛暑日が続いたあと7月とは思えない涼しい朝をむかえたこの日、待望の「鯛まつり」が行われました。 

毎年、このお祭りが行われるのは、愛知県知多郡南知多町豊浜。
知多半島の先っぽの町です。


伊勢湾に面する南知多町豊浜は、県下ナンバーワンの水揚げを誇る漁師町。
威勢のいい漁師さんたちのお祭りですから、まさに男の祭り!勇壮な祭りとして有名なのですよ。
お祭り女子としては、こりゃなんとしても見逃すワケにはいけません。
なにせ、漁師さんの祭りであるだけに早朝から始まるこの祭り、 早起きしてもモタモタしている時間はありません。

コンビニで買ったパンをかじりながら、すっ飛んで行きましたさぁ(*^^)v
しかし、この日は今にも降り出しそうな暗い雲が広がる曇天。
多少の雨なんかで中止になるようなヤワな祭りではありませんが、ちょっと心配。
それでも、海に近づいて行くほどに明るくなってきましたよ。
やっぱり私は、晴れ女。

さあ、頑張って写真撮るぞ~!
車を駐車し、歩きだして5分で一匹めの巨大鯛に遭遇。
ヒョエ~(@_@;) デッカイです!
お囃子も賑やかです。
さっそくカメラを出してパシャ。
祭り広場となっている港付近は、もう、凄いカメラを持ったオジサンでいっぱいです。

私には関係ないですけど、フォトコンテストなんてのもあるそうですからね、みなさん、チカラ入ってますよ。
私の腕前では、フォトコンテストなんてほど遠い話なのですが、 隣にいるおじさんのカメラを横目でチラッと見て、羨ましくもある今日この頃・・・(-_-;) って、そんなことはどうでもいいですね。


くだらない話はこれくらいにして、そろそろお祭りの紹介をしましょうね。
豊浜「鯛まつり」は“天下の奇祭”といわれています。
“天下の奇祭”と呼ばれる祭りは日本各地にありますが、この祭りが“奇祭”と呼ばれるのには、どうやらその歴史に秘密があるようですよ。
では、その歴史のお話から始めましょう。
「鯛まつり」の始まりは、明治18年頃といわれていますから、いままで紹介してきた“祭り”に比べると、長い歴史と伝統を誇る祭りとはいえませんね。
しかし、この祭りの歴史と変遷は、とても興味深くてユニークなのです。
澤田憲二さん撮影


今から、その変遷のいきさつを書いていきますが、心温まるエピソードの数々が、きっとみなさんの心を和ませてくれますよ。
なんか勿体ぶった言い方をしちゃいましたね。
では、時代を追って話をしていきましょう。
元来、「鯛まつり」は、この地域の鎮守「中洲神社」の祭礼から始まったそうです。
その起源は、はっきりしませんが、江戸中期には藁と杉の葉から作った干支の「だし物」を奉納する習わしがあったようです。


しかし、ある年祭礼で、その「だし物」に火がつき火事になるという事件が起きたのです。
そこで、この地を治めていた殿様によって、「だし物」が禁じられてしまいました。
それからは、「だし物」もない質素な祭礼が幾歳月か続いたのですが、明治の始め頃、それを寂しく思ったある村人がいました。
中洲村の森左衛門さんと森佐兵衛さん兄弟です。
元々船大工さんだった森兄弟は、さびしい祭り盛り上げようと、とても立派な舟型の山車を造ったそうです。

澤田憲二さん撮影
村人は大変喜び、祭りは活気を取り戻しました。
しかし、また大きな悲しみが訪れたのです。
明治12年、この村でコレラが蔓延してし、多くの死者が出ました。
漁に出ても魚を売ることも出来ず、村の財政は危機に陥り、立派な山車さえも売らなくてはいけなくなってしまったのでした。
泣く泣く船山車を手放すことになった中洲村。
しかし、その6年後、またもや寂しくなってしまった祭りに、森佐兵衛さんは立ち上がります。
木材も手に入らない中、得意だった「ハツカネズミ」の小物作りを張りぼての「ハツカネズミ」にすることを思いつきます。


これが「鯛まつり」の始まりといわれています。
えっ?でも、このままだと「鯛まつり」ではなく、 「ハツカネズミ祭り」になっちゃいますよね。
その後、張りぼては「ハツカネズミ」 から「象」になったり、「牛」や「兎」になったり、ほとんど“おもいつき”で造られそうですが、明治30年頃から漁師の町にふさわしく、海の生き物になっていったようです。
昭和の初め頃には、張りぼても次第に巨大になり、「伊勢エビ」や「クジラ」の張りぼても登場したそうですよ。
現在のような「鯛」になったのは、昭和12年頃。やがて、この“おもいつき”は、中洲地域に限らず、隣町にも広がっていき、昭和51年には周囲の町も含めて5匹の鯛が勢ぞろいするようになったそうです。
なかなか面白いエピソードでしょう。
ほろっときたり、愉快だったり、いいんだなぁ~(#^.^#)
こういう歴史を知ると、一層祭りが楽しめますよ。


さて、祭り当日に話を戻しましょう。
大鯛の町内巡行が終わると、大鯛の横では若い衆の酒盛りが始まります。

その賑やかなこと、まあ半端ない数のビール缶があたり一面に転がっています。
さすが漁師さん、大酒のみの揃い踏みですな。
年に一度のお祭りですから、それはそれでいいのですが、ビールを飲めば自然現象が・・・。
あちらこちらで、立〇〇のお兄さんに出会ってしまうのが困り物でしたけどね(-_-;)
そんなこんなで、その場を離れることにした私ですが、おかげで港の近くのお寺を散策したり、観光市場を覗いたり、漁師さんの食堂に入り安くて美味しい昼食もいただきましたよ。



午後になると、号砲が打ち上げられ、いよいよ大鯛の集結が始まります。
ところがこの号砲が雨雲を刺激したのか、ついに雨がポツリポツリと降り出してしまいました。
それでも幸いなことに本降りとはならず暫くすると雨も止み、集合地で待っていると次々と大鯛が入って来ました。
ちょっとばかり千鳥足のお兄さんたちが右や左にうねりながら、まさしく大海を泳ぎ回る巨大な鯛のように近づいてきます。

集合広場の手前で回転する姿は迫力満点。
尾ひれに蹴散らされそうで、怖かったくらいです。


澤田憲二さん撮影
4匹の鯛が広場に収まったところをカメラに収めた私は、満足して帰途につこうと思ったのですが、今ひとつ納得がいきません。
なぜなら、どの鯛も全部赤いのです。
あれ?パンフレットには確か黒い鯛もいたはずなのに・・・。
そこで私は、祭り案内所まで戻り、商工会の方に尋ねることにしました。
「観光パンフレットには黒い鯛もいたように思いますが、どうして全部赤いのですか?」
すると、こう教えて下さいました。
「今晩、このうちの1~2匹を黒く塗るのですよ」
ふ~ん、なるほど。



澤田憲二さん撮影
「どうして、最初から黒い鯛ではいけないのでしょうか?」
すると答えは

「さあ、どうしてなのでしょうね」
・・・・・・(・_・;)
「ありがとうございました」
家に帰り、ネットでいろいろ調べてみましたが、20年前から一晩で真鯛から黒鯛に変身させるようになったとだけしか書かれていませんでした。
未だ、そのナソは解けていませんが、たぶんこれも
“おもいつき”なんじゃないでしょうかね<(`^´)>


澤田憲二さん撮影

ところで、いなかったはずの黒い鯛の写真がなぜあるのか!って気づいていただけました?

私が訪れたのは2日間行われる祭りの初日。
陸地での巡行は観られたものの、海に入っていく大鯛の姿や黒い鯛は2日目の行事なので、写真を撮ることが出来ません。
そこで、特派員の登場です。偶然にも「鯛まつり」の写真を撮りに行く予定をされていたフェイスブックの友人、澤田憲二さんに入水した大鯛のショットをお願いしたのです。
私より遥かに優秀なカメラマンさんなので、いつもより数倍迫力のある写真を掲載することが出来ましたよ。



幾多の遍歴をたどり、戦争という厳しく暗い年月の間も地域の人の努力で守られてきた「鯛まつり」
“おもいつき”の発想がとっても愉快で、豪放磊落な漁師の心意気が感じられるお祭りでしたよ。
みなさまも来年はぜひ、お出かけになりませんか。
美味しい魚も食べられますよ。
今日も読んで下さって、ありがとうございました。
では、今日はこの辺で<(_ _)>