2012年5月25日金曜日

天空にそびえる武者人形   三国祭

武者人形山車

名古屋から高速道路をすっ飛ばし、3時間かけて辿り着いたのは福井県坂井市三国町。
この日訪れた目的は、北陸三大祭りといわれている「三国祭」を見学するためです。
お祭りウォッチャーの私ですが「三大祭」と呼ばれるような大々的な祭りを見に行くことはあまりありません。
いままでご紹介してきた祭りも、地方色豊かな地元の祭りばかりでしたが、私が「三国祭」に関心を持ったのは、かねてから三国湊という、かつては北前船の中継基地として栄えた湊町に関心があったからでもあります。

三國神社 随身門(福井県指定文化財)

江戸時代、日本海を廻る北前船は、やがて瀬戸内海や大阪まで航路を広げ、町人文化を開花させました。
北前船は、それぞれの港に物資を運んだだけではなく、多くの文化や流行を伝える役割を果たし、それによって莫大な富を得た豪商たちは、武士とは違う深い見識持ち、新しい文化を創りだしていったのです。
そんな豪商の中から、文人あるいは粋人といった人達が次々と現れ、日本文化は発展していったと言っても過言ではありません。

武者人形山車の揃い踏み

新しい文化の発信地ともなった歴史のある湊町を散策してみたいと思っていた私は、祭りだけではなく湊町の面影も堪能しようと往復6時間の道のりを遥々出かけて行ったのです。

さて、「三国祭」と云えば巨大な武者人形が歴史ある三国の町を巡行する勇壮なお祭りとして有名ですが、まずはその歴史からご紹介しましょう。
1番山車 四日市区 新田義貞



「三国祭」のはっきりとした起源は定かではないようですが、記録によると享保2年(1717年)には、山王宮(現在の三國神社)の祭祀として笠鉾が登場します。
いつごろ、笠鉾が武者人形山車になっていったのかも定かではありませんが、やがて北前交易が盛んになるにつれ、武者人形が巨大になっていったとか。
そのため、御輿型から人形を搭載して曳く山車型になっていったようです。
幕末から明治中期にかけては、なんと10mを超える巨大武者人形を山車に載せ曳いたというのですから、その迫力と労力は想像を絶しますよね。
しかし、明治後期、電力の普及に伴い電線が設置されることによって巡行が出来なくなります。

2番山車 大門区 大天狗


一旦は普通の飾り山車での巡行となりましたが、武者人形の復活を願う町衆の願いから大正4年に武者人形を座した姿にすることで高さを6mに制限し、今日に続いている福井県を代表する曳山祭りとなったそうです。
現在、三国町内には全部で18基の山車がありますが、毎年「三国祭」に奉納されるのは6基と決まっていて各町の交代制だそうです。
当初、私は「18基全部が揃い踏みしたら、さぞや豪勢なのに、なぜ6基だけなんだろう」と少々疑問に思い、その意味を検索してみましたが、それについての記述はまったく見当たりませんでした。
しかし、三国の町中を散策してみて、なんとなく分かった気がしました。
なにしろ、道が狭いのです。
3番山車 上西区 源義家



かつての湊町の栄華を誇る町並みでの山車巡行経路には、山車がすれ違うスペースもなければ、18基が並ぶスペースもほとんどありませんでした。
はたして、それが18基全部を揃えない理由かどうかは私には分かりませんが・・・。

山車の形は二層式で、一層目には子供で編成された囃子方が入り、二層目に武者人形が載っているシンプルな形です。
山車本体については、私の知っている山車の中ではさほど大きな部類ではなく、狭い道筋でも小回りが利くように前方中央に小さい車輪がひとつあり、両脇に直径120㎝くらいの車輪がある3輪型で後方に梶棒があります。

4番山車 滝本区 鏡獅子


「三国祭」の山車は、交代制で6基の登場だと先ほど説明いたしましたが、当番になった町では1年の歳月をかけて武者人形を制作するそうです。
専門の人形師に発注する町もあれば、山車人形研究会を組織したり、自治会で力を合わせ制作する町など武者人形の制作方法には特別な決まりはないようです。
とはいえ、町の誇りである以上、どの町も武者人形に懸ける情熱は相当なものであろうと想像できます。
ましてや、毎年自分たちの町が奉納舞台に参加できる訳ではありません。
そうとなれば当然、我が町の武者人形を見ろ!とばかりに、どの地区も趣向を凝らしたりっぱな武者人形造りに力を注ぐのでしょうね。


5番山車 下錦区 真柄十郎左衛門


今回の奉納となった山車は、1番山車が四日市区で人形テーマは「新田義貞」、続く2番山車は大門区の「大天狗」、3番山車は上西区の「源義家」、4番山車は滝本区の「鏡獅子」、5番山車は下錦区の「真柄十郎左衛門直隆」、そして最後の6番山車は「福井藩主「結城秀康」、この6基が順番どおりに市街地を巡行するのです。
大きな武者人形を載せた山車が6基、三國神社前に集結し居並ぶ姿は、まさしく圧巻でした。

正午に集結した山車は「発幸祭」と呼ばれる神社への奉納儀式が終わるといよいよ巡行の始まりです。

6番山車 上台区 結城秀康


1番山車を先頭に神輿が2基、古式装束をまとった少年少女達の行列、2番山車、3番山車と次々と出発して行き、午後4時には再度駅前広場に集結し、夜更けまで各地域の巡行が続くそうです。
私は時間の都合上、最後までは見られませんでしたが、夜祭に突入する頃がもっとも盛り上がるそうですよ。

正午近くになると、とにかくもう三國神社付近は物凄い熱気です。
身動きが出来なくなったら大変なので、私は早々に三國神社の参詣を済ませ、山車が勢ぞろいしたところをなんとかカメラに収めた後、混雑する三國神社を離れ町並みの散策に向かいました。


山車の梶棒を操る町衆

旧市街の古い町並みに向かう沿道には、隙間なくぎっしりと露天商が並んでいました。
その数は500軒にも及ぶそうです。
近頃の露店は、B1グランプリの影響か、富士宮やきそば・シロコロホルモンなどと銘打った露店もあり、ちょっと興味をそそられます。
なかでも、私は名古屋名物「テリヤキロール」なるものが気になって、ついに買い食いをしてしまいました(~_~;)

「かぐら建て」の町家


名古屋に住んでいても初めて聞く名前ですから、ここは押さえておかないとね(*^^)v
細かく切られたテリヤキチキンをキャベツの千切りと一緒にトルティーヤのような小麦粉の生地にクルクルと包んで食べるのですがね、これが思いのほか結構イケたのですよ。
って、また話が脱線してしまいました、露店の話はどうでもいいですね<(_ _)>


「かぐら建て」構造図



では、町並みの紹介をしましょう。
三国町の町並みの特徴は「かぐら建て」という工法で建てられた町家にあります。
「かぐら建て」とは、一見平入りに見える玄関の後方に切妻妻入の二階建が接続された形の家で、この三国町独特の建物です。
間口は、さほど大きくありませんが、京町家同様奥行きのある建物で「袖壁うだつ」と呼ばれる防火壁のある町家も多く見られます。

和洋折衷でモダンな面影を残す商家

味わい深い千枚格子戸の町家が続く旧市街は、この湊町の歴史を語ります。
そのほか、福井県で最も古い鉄筋コンクリート造建物の「旧森田銀行」などは威風堂々したその姿に見惚れてしまいますよ。

さて、話はまた「三国祭」に戻ります。
ゆっくりと町並み散策をしていると、遠くから祭り囃子の音が近づいてきましたよ。

北前船で財を成した森田三郎右衛門が設立した「旧森田銀行」

ザワザワと人波を引き連れて1番山車がやってきました。
旧市街の狭い道にぎっしりと立ち並ぶ露天商の屋根を跳ね上げ、町家の軒をすり抜け、右や左に細かく梶を切りながら巡行して来る大きな武者人形は町並みによく似合います。
電線を高く持ち上げ、差配の号令によって進路の妨げを避けながら近づいてくる山車の正面で、私は夢中でシャッタを切り続けました。

ひととおり、6基全部の山車の写真を撮り終えて、私は明治初期の高さ10mもあったという巨大武者人形に想いを馳せてみました。
そこには、行き交う人々で活気あふれる交易港の賑わいが見えてきましたよ。

時空を超えて往時の面影を残す湊町三国町、近くには、芦原温泉や東尋坊といった観光名所もあります。
お近くに訪れる機会があったら、皆さんも三国町にちょっと寄り道してみませんか?


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