2012年4月19日木曜日

愉快でカラフル「杵振り祭り」   中津川市蛭川

杵振り踊り

今回、ご紹介するお祭りは、とってもカラフルなお祭り「杵振り祭り」です。
どうです?
写真を観ていただければお分かりのとおり、なんとも派手な衣装でしょう。
思わず笑っちゃいませんでしたか?
このユニークなお祭りを一目見ようと、向かったのは、岐阜県中津川市蛭川の町です。
7年前に市町村合併によって、中津川市に編入された蛭川ですが、以前は蛭川村と呼ばれていた山間の静かな山村です。


子供みこし

蛭川は岐阜県の東南部に位置し、「蛭川石」と呼ばれる花崗岩(御影石)の産地でもあります。
「蛭川石」とは、やや鉄錆色の混じった白っぽい花崗岩で、古くから庭石として珍重されてきました。
現在も掘り出される「蛭川石」がおもな産業の蛭川の町では、あちらこちらで石碑や石のオブジェを見ることができます。
豊かな自然の残る町ですが、近年、町の産業の活性化を目的とした「石彫のつどい」が毎年夏に行われ、全国から彫刻家および石の加工職人が集まり25週間にわたりこの地に滞在して、作品を制作・展示するイベントが話題となります。

厄年みこし
ではこの辺で、お祭りの紹介をしましょう。
「杵振り祭り」は、この町の鎮守「安弘見(あびろみ)神社」の例大祭で、毎年4月16日に近い日曜日に行われます。
そして、その例大祭に奉納されるのが「杵振り踊り」なのです。
お囃子連を引きつれ、軽妙なリズムに合わせ「ソーイソーイ」の掛け声とともに奇妙な形の笠を被った青年たちが小さな杵を振りながら踊り、蛭川町を練り歩きます。
普段は静かな山間のこの町が、この日ばかりはカラフルな色に染まるのです。

それにしても、奇妙な「被り物」ですよね。
花みこし
この面白い形の笠は、一説によると手に持っている「杵」に対して「臼」なのではないか、と云われていますが地元の人にもよく分からないそうです。
「杵振り祭り」の起源は400年とも600年とも云われているのですが、記録が残されているのは明治以降からのようで、実のところ何にも分かってはいないのだそうです。
それでも昭和36年には県の重要無形民俗文化財の指定を受け、今日に至るまで受け継がれてきたのです。


神馬


分かっているのことと云えば、明治の廃仏毀釈以前は、牛頭天王社の薬師堂(現在の安弘見神社)に奉納される祭祀であったということだけ。
その頃は獅子舞に杵振り二人と云うのが通例だったようです。
大正期になって最高潮の盛り上がりとなり、大人数の「杵振り踊り」になっていったそうですが、現在は「過疎化・少子化」によって、またその人数が減少しているのだそうです。


花馬

この日も、私は地元のおじいさんと仲良しになり、祭りの話を聞かせて頂いていたのですが、楽しそうだったおじいさんの表情が一瞬曇り、「行列が短くなったよ」と寂しそうにつぶやかれました。
なんだか私も寂しい気持ちになりました(-_-;)
近頃は、どこの祭りに行っても「過疎化・少子化」という問題に直面していると聞きます。
ひとくちに行政だけの問題であるとは言えない、この問題を解決するのは非常に困難なことだと思います。


進学などで、一旦故郷を離れてしまった若者にとって、故郷が遠くなるのは仕方ないことであるのは、私にも身をもって理解できるだけに返す言葉もありません・・・(>_<)
話が湿っぽくなってしまったので、楽しい祭りの話に戻しましょう。
祭りの当日は、「青年みこし」から始まります。
私は、到着時刻が少し遅かったので「青年みこし」は見られませんでしたが・・・(-_-;)

あばれ獅子舞

続いて、「子供みこし」の登場です。
「ワショイワッショイ」と元気な小学生のみこしが練り歩いた後は、厄年の男たちが担ぐ「厄年みこし」です。
まっかな法被を着た厄年の男たちは、朝からお酒が入っているのか少々千鳥足。
そして、艶やかな女性たちの担ぐ「花みこし」です。
法被姿にキリリと鉢巻を巻いた女性たちのみこしも、なかなかの迫力でしたよ。
午前中の神輿渡御が終わると、午後からは神事が始まります。

お囃子隊

そこで私は、安弘見神社の境内で一服。
地元の名物「朴葉ずし」を買い求め、休憩所でいただきました。
「朴葉ずし」とは、鮓飯に山菜や鱒を載せて朴の木の葉っぱで包んだものなのですが、素朴な味でとても美味しかったですよ。
そうこうしているうちに「杵振り踊り」の一行が公民館前を出発したとのアナウスが入ったので、沿道で待つため、一旦神社から離れました。
沿道で待つこと1時間、やっと遠くからお囃子の響きが聞こえてきました。
赤鬼・青鬼・ヒョットコ・オカメ


期待でワクワクです。
最初に登場したのは、神馬と花馬です。
背中に大きな飾り物をのせた馬が二頭、祭りのクライマックスに「安弘見神社」の階段を物凄い勢いせ駆け上るのだそうです。
走る馬の飾り物を取るとことが出来ると1年間無病息災でいられるそうで、神社の階段脇に何人かのおじさん達が陣取っていたのは、そう云うことだったんですね。
神馬・花馬に続いて、赤鬼、青鬼、オカメにヒョットコ、そしてあの奇抜なスタイルの「杵振り踊り」隊、お囃子隊が続き、最後に暴れ獅子という長い行列が目の前を行き過ぎていきました。

その行列のカラフルで楽しいこと!
私は写真を撮ることも忘れ、しばしお祭り気分に酔いしれてしまいました。
いつもは祭りを客観的に見ている私ですが、こうも祭りらしい祭りに出会ったのは久しぶりだったのです。
豪華な山車があるわけでもないし、由緒正しき伝統も分からないお祭りなのに、まるで自分もこの町で生まれ、昔からこの祭りに参加しているような懐かしささえ湧いてくるのです。

それは、素朴でありながら見ている人すべてを惹きこんでいく愉快な踊りにあるのでしょう。
でも、お祭り気分に浮かれているわけにもいきませんね。
皆さんに紹介する以上、頑張って写真を撮らなきゃ!
そこで、急いで行列を追い越し神社でカメラを構えようと意気込んではみたものの、境内の参道には入り込む隙もありませんでした。
そこで、境内の広場を見渡せる土手で、カメラを構えることにしました。
やがて、神社への奉納儀式も終わり、境内に降りてきた「杵振り踊り」の一行は、この広場で最後の踊りを披露してくれました。

いやぁー、楽しかったなぁ(^o^)
「杵振り祭り」は、とっても愉快で、私にいっぱい元気パワーをくれました。
だから、祭り見物はやめられない!
さて、次はどこのお祭りを見に行こうかな(*^^)v

2012年4月14日土曜日

山村に伝承される能・狂言  本巣市根尾能郷

能「高砂」

今日、ご紹介するのは、本巣市根尾能郷に代々伝承され続けてきた「能・狂言」です。
地名からして「能郷」ですから、いかに伝統があるのかが分かりますよね。
その歴史は古く、なんと650年もの永木に渡り受け継がれてきた伝統芸能なのです。
しかし、ここで先に申し上げておきますが、今回紹介する「能・狂言」は皆さんの想像する「能・狂言」とは少し違います。
それは、どういうことかと簡単に説明しますと、まだ世阿弥によって集大成された現在の形の「能」あるいは「狂言」ではなく、「猿楽」の原型を残す、この地でしか見られない「能・狂言」なのです。

能「翁」
それだけに、もっとも重要な民俗文化遺産として、昭和51年に国の重要無形民俗文化財に指定されました。
能郷の白山神社に於いて、毎年4月13日に奉納される神事「能郷 能・狂言」は、先ほど申し上げたとおり650年の歴史を有します。
650年前といえば室町時代。
やがて、観阿弥とその息子世阿弥の登場によって「能楽」という現代に続く「能」あるいは「狂言」に発展していくわけですが、それは都での話であり、この辺境の土地に於いての「能・狂言」は、まだ「猿楽」に近いものであったということなのです。
では「猿楽」とは、いったい何ぞやと思いますよね。

能「三番叟」

以前に紹介した「神楽(かぐら)」や「田楽(でんがく)」に比べ、「猿楽」は、現在ほとんど見ることのできない幻の芸能と云われています。
大陸から伝来した「散楽」が、「申楽」あるいは「猿楽」と呼ばれるようになったと云われていますが、定かではありません。
伝来した当初の「散楽」は、今で云う「神楽」や「田楽」の要素すべてをごちゃまぜにした、娯楽的要素の高い多種多様の芸の集合体であったと云われています。
そのころは、宮廷芸能である「雅楽」に対し、「猿楽」は身分の低い者の芸能と云われ、下賎と蔑まれた「傀儡子(くぐつし又はかいらい)」と呼ばれる旅芸人によって日本中に広まっていったのです。
その芸能が地方に根付き、その地の氏神に奉納される祭祀、あるいは豊年祈願や雨乞いの儀式として残っていったと云われています。
では、どのように「神楽」、「田楽」「猿楽」と別れていったのでしょうか。
狂言「丹波淡路」



「散楽」の要素のうち、「曲芸」や「舞い」などの部分を引き継いだのが、「神楽」と云えるでしょう。
「神楽」に関しては、主に神社の庇護のもと、「獅子舞」や「巫女舞」など、現在もあまり形を変えることなく残っています。
「田楽」は、主に農村で行われる豊作祈願や雨乞いの儀式として残りましたが、現在では山里に細々と残るのみです。

能「高砂」

「猿楽」に関していうなら、「猿楽」という言葉を残したのみですが、最も華麗に変身し、現在の「能楽」「狂言」に昇華したわけですから大出世というべきでしょう。
華麗な「能・狂言」も素敵ですが、素朴であった頃の「能・狂言」も見たいと思いませんか?
そこで私は、福井県との県境に近い、この山深い辺境(能郷の皆さんごめんなさい)の地まで、やってきました。
能郷に辿り着いたのは、ちょうど正午近く、飲食店などいっさいあろうはずもなく、1時からの公演に備えて腹ごしらえをしなくてはと考えていたところ、地元の惣菜を売る露店が一軒だけ準備を整えていたので、さっそく食べ物の確保に。
しかし、そこにはお弁当の類はありません。
ご飯こそ売ってはいないのですが、なんとまあ素朴で美味しそうな山菜料理がいっぱい。
天然わさび菜の漬物、アザミの茎の煮物、芋がらの煮物、新タケノコの煮物などetc.
狂言「烏帽子折り」




つきたての餅とおがずを買い込んで、用意されたビニールシートの見物席に座りみ、それらの惣菜を広げてひとりで食していると、隣町からいらっしゃったという二人連れのご婦人が声を掛けてくださいました。
嬉しいですよね、こういう時。
ひとりで黙々と食べるより、世間話でもしながら頂くと何倍も食事が美味しくなっちゃいます。
あら、また話が脱線してしまいましたね(>_<)
能「田村」

では、能郷の「能・狂言」の話に戻します。
能郷の「能・狂言」は、ここ能郷に住む「能楽衆」の家16戸によって代々守られてきました。
その伝統は厳格で、能方、狂言方、囃子方とそれそれの家が定まっていて、世襲制なのだそうです。
演目については、すべて口伝だと云うのですから、その家に生まれない限り習得はできませんよね。
しかし、過疎化、少子化により、後継者不足と云う問題も抱えているそうです。

狂言「鎮西八郎為朝」

そんな中で、この伝統芸能を守っていくのは、これから先も数々の困難があることでしょう。
厳しい規律だけに、観ているだけの私たちには何も出来ませんが、なんとしても後世に残すべき文化遺産です。
たくさんの人に知ってもらいたいなぁ、そうすれば道は開けると思うのですが・・・。

能「羅生門」



この辺で、この日行われた演目を少しだけ紹介します。
まずは、能の「式三番」
この演目は「千歳の舞」「翁」「三番叟」という順番で行われる神前への奉納舞です。
「千歳の舞」は「露払い」とも呼ばれ、子供が行うものとされているそうです。
「翁」の面は「白色尉」、五穀豊穣を祈る舞だそうです。
「三番叟」の面は、「黒色尉」、大地の目覚めを促す舞で、舞台を踏み鳴らし地霊を呼び起こします。
真摯な瞳で舞台見つめる、次世代の少年

次は、狂言「丹波淡路」、丹波の百姓と淡路の百姓の問答が面白い狂言です。
三番目の演目は、能のなかでも最も有名で、薪能などでよく演じられる演目「高砂」です。
神聖なる神の舞、寿ぎの舞でもあります。
そのほか、狂言「烏帽子折り」、能「田村」、狂言「鎮西八郎為朝」と3つの演目を能と狂言の交互に淀みなく演じられ、最後に能「羅生門」で締めくくられました。


天然記念物「薄墨桜」
どの演目、またお囃子も素晴らしく完成度の高い芸術で、私は、みるみる惹きこまれていきました。
しかし、このように素晴らしい伝統芸能なのに見物のお客様は100名弱と少ないことをとても残念に思いました。

近くには、宇野千代さんの小説で有名な天然記念物の「薄墨桜」があります。
この時期には、観光バスがガンガン押し寄せます。
能郷は、そこより更に山奥ではありますが・・
4月13日のたった一日の公演ですが・・・

「薄墨桜」を見にいらっしゃるなら、能郷の「能・狂言」という素晴らしい伝統芸能もぜひ観ていただきたいと、切に願うのみです。

2012年4月9日月曜日

山間を駆け抜ける船だんじり  八百津祭り

「黒瀬組」

桜の花もほころぶ春4月、いよいよ春祭りの季節到来です。
私の住む中部地方でも、週末ともなれば各地で祭りが催されます。
出来ることなら、すべて紹介したいのですが我が身はひとつ、私の勝手なチョイスとなることをお許しください。
今回、ご紹介する春祭りは、岐阜県加茂郡八百津町の「八百津祭り」です。
八百津(やおつ)町は、岐阜県の中南部に位置する山林に囲まれた静かな町です。

本郷組



八百津の「津」という字は「港」という意味をもちます。
海に隣接していない岐阜県において、なぜ「港?」と思われるでしょうが、「港」は海岸にあるとは限りません。
かつて鉄道や車の無かった時代、川にだって「港」はいくつも存在したのです。
八百津の町の8割は森林であり、その森林と森林の間に流れる雄大な木曽川の河岸に存在した「川港」により繁栄を極めた八百津の町。
芦渡組

江戸の昔にさかのぼれば、ここが木材の運搬基地として船運業で繁栄したようすが、往時の面影を残す街並みからも垣間見ることができます。
現在は、林業の他にこれといった産業もないことから、周辺の地域から遅れをとった感じがあることは否めない町ですが、それだけに山間の静かな生活や伝統が綿々と受け継がれ、誰の心に郷愁を抱かせてくれる懐かしい町です。

八百津町の街並み

また、「命のビザ」で知られる元外交官、杉原千畝の出身地としてこの地を一躍名にしたのは、映画「シンドラーのリスト」公開後で、日本にも命がけでナチスドイツからユダヤ人を守った人道主義者がいたのだという事実に多くの人が感動したことは、皆さんの記憶にも残っていることと思います。
その杉原千畝の功績を称え、20年程前に開園された「人道の丘」には、杉原千畝記念館も併設され、多くの資料とともに、杉原千畝のひととなりを知ることができます。

八百津町の街並み

そのほか、八百津町名物と言えば「八百津せんべい」
昔ながらの小麦粉で出来たせんべいは、ちょっぴり甘くて素朴な味わい、懐かしい味がしますよ。
さて、前置きが長くなりましたが、ここいらで祭りの紹介をしましょう。
「八百津祭り」は、毎年4月の第一土曜、日曜に行われる八百津町の産土神(うぶすながみ)である「大舩神社」の祭礼です。
私の訪れたのは、2日間行われる祭りの試楽と呼ばれる初日。


本郷組
春とはいえ、まだ肌寒い風が吹く冷たい日、到着したのは午前10時半です。
家々には祭り提灯が吊るされ、中には日の丸の国旗が掲げられた家もありました。
駐車出来る場所を探して街中を走っていると、早くも用意万端の「だんじり」を発見、予想以上に大きさに、まずはびっくり。
集まっていた人たちに駐車場の場所を聞いて車を駐車し、先ほどの「だんじり」のもとへと急いで戻ると、親切にも横にある和菓子屋さんの奥さんが「まだ、時間があるからお茶でも飲んでいきなさい」と声をかけてくださいました。

芦渡組


ありがたいお言葉に甘えて店先でお茶を頂き、祭りのことをあれこれ教えていただいたので、せめて和菓子を買うことでお礼をしようとしたら、「無理に買わんでいいよ」とまで、おっしゃるではないですか!
なんという、優しい心遣いなのでしょう。
「では、帰りがけにもう一度寄らしていただきます。そのときにお土産を買わせて下さい」と言うと、にっこり微笑んで「いい写真撮ってね」と送り出してくださいました。


黒瀬組」
なにより嬉しいのは、こうした出会いです。
もう二度と会うことのない人であっても、暖かく迎え入れてくださる地元の人たちとの会話。
こうした触れあいが祭りばかりではなく、「ああ、ここに来てよかった」という思い出として私の心に印象深く残るのです。
話がまた横道に逸れてしまったので「だんじり」の話に戻しましょう。
1番先に出会った「だんじり」は熊野神社前で待機している「黒瀬組」の「船だんじり」
全長は約9m、高さは約6m、重量は4トン。
高さこそ普通ですが、長さがすごい!
船の舳が載った形のこの「だんじり」は、いままで見てきた山車のなかでも最長です。


芦渡組
しかし、なにより驚いたのは、これまで見たどの山車より小さな車輪、はっきりとは分かりませんが、直径80㎝余りしかなかったように感じます。
こんな大きな「だんじり」に、こんな小さな車輪で大丈夫なんだろうかとも思いましたが、動きだしたところで、すぐに納得しました。
八百津町の道はとても狭いのです。
全長の長い「だんじり」であるからこそ、小回りの利く小さな車輪でなければいけなかったのでしょう。
しかし、車輪が小さいということは動かすのに相当な人力が必要となるわけです。
本郷組

そこで、この「だんじり」を引くために、普段は都会で暮らしている若者たちも必然的に帰ってこなくてはいけなくなるのです。
そうやって、故郷の祭りは守られていくのだと、改めて感慨深く思いました。
ところで皆さん、船の形をした山車を見たことがありますか?
船型の山車は、日本各地にあるそうですが、私は今回が初めてなので、それだけで、もう最初から興奮ぎみ。
これまで、華麗な彫刻や装飾、あるいは人形カラクリの施された雅やかな山車や屋台を多く見てきましたが、八百津祭りの「だんじり」は、それらとは、また違う勇壮な姿をしていました。
どう表現してよいのか分かりませんが、一言でいうなら「雄々しい」という形容詞がふさわしいと思います。
八百津町には、3両の「だんじり」があり、祭りのクライマックスには、その3両が連結して一艘の大きな船となるのです。
地区ごとの競り合いや競演ではない祭りに、私はこの町らしさを感じるたのですが、皆さんはどう思われるでしょうか?
ここで、「黒瀬組」の1両だけに留まっているわけにはいかないので、他の2両の探索に出かけましょう。
2番めに出会った「だんじり」は「本郷組」

黒瀬組
3両連結の中央にあたるこの「だんじり」には、先ほど出会った「黒瀬組」の「だんじり」のような船の舳はありません。
しかし、舳がない分尖ってはいないので、正面からはより大きく見えます。
連結の中央にあたるせいか、この「だんじり」には、漆塗りが施されてはいないので、ちょっぴり地味目です。
そして、探し回ったあげくやっと最後に見つけたのが、「芦渡組」の「船だんじり」
この「だんじり」には「黒瀬組」の「船だんじり」同様、船の舳が載っています。
一見した感じでは、「黒瀬組」と「芦渡組」の「船だんじり」は、見分けがつかないのですが、舳に日の丸を掲げた方が「芦渡組」で、舳に榊を飾ってある方が「黒瀬組」なのだと気が付きました。
さて、いよいよ3両の「だんじり」が連結するクライマックスも近づいてきました。

木曽川 八百津大橋

祭りの初日は、八百津大橋の上での連結になるということだったので、近くにいたのでは3両連結された「だんじり」の姿をカメラに収めることは出来ないと思い、大急ぎで車に戻り、八百津大橋が見下ろせる国道に車を走らせましたが、この判断が大間違いでした。
間に合わなかったのです・・・。
ビューポイントに着いた時には、すでに連結は終わり、引き上げていく「だんじり」の後部が少し見えただけでした・・・(>_<)
皆さん、ごめんなさい。
私の判断ミスにより、祭りのクライマックスである最も重要な画像をお見せすることができませんでした。
どうぞ、お許しください<(_ _)>

しかし、私にとっては、勇壮な祭りに出会えたこと、八百津の人たちのご親切に触れあえたこと、とても有意義な一日でした。
もし、機会があれば再度、訪れてみたい町であり、祭りでもありました。
その時こそ、一艘の船になった「だんじり」をバッチリ、カメラに収めてきますので、気長に待っていてくださいね。

PS
このあと私は、和菓子屋の奥さんとの約束を果たすべく町に戻り、奥さんにお礼を言い、草餅と桜餅を2個づつ買い求め家路につきました。