2012年3月21日水曜日

真桑人形浄瑠璃 岐阜県本巣市

傾城阿波の鳴門
今日は、みなさんを「文楽」の世界にご案内いたします。
と、偉そうななことを申しましたが、実は私、「人形浄瑠璃」を鑑賞するのは今回が初めてなのです。
したがって、「文楽」を語る知識も資格もありません。
しかし、何事も、まずは見て感じることから始まると思うのです。
ろくな知識もないくせに、「文楽」について書くことは大変おこがましいことではありますが、この素晴らしい伝統芸能をぜひ、多くの方に紹介したくて無謀にも記事にしてしまいました。


そういう訳で、一夜漬けの知識しかないので、あらかじめ御了承ねがいます<(_ _)>

では、今回ご紹介する「真桑人形浄瑠璃」についての歴史から。
「真桑人形浄瑠璃」は、岐阜県本巣市にある本郷物部神社で、年に一度奉納上演される国指定重要無形民俗文化財であり、祭礼です。
その歴史は300年を誇り、真桑の治水問題や用水開発に尽力した福田源七郎の遺徳をたたえて上演したのが始まりといわれています。


今回、本楽(ほんらく)で上演された人形浄瑠璃は、真桑文楽保存会及び地元子供会、地元中学生によるもので、「三番叟」・「傾城阿波の鳴門 巡礼歌の段」・「絵本太功記十段目 尼ヶ崎の段」・「真桑誉義農源七郎 水争いの段・初真桑の段」・「増補朝顔日記 宿屋の段より大井川の段」・「千秋楽」の六題のほか、こども浄瑠璃(義太夫のみ)の全部で七題です。



私は時間の都合上「増補朝顔日記 宿屋の段より大井川の段」と「千秋楽」を観ることが出来ませんでしたが、それはそれはとても見応えのある素晴らしい公演で、とても感動しました。

そもそも「文楽」のなんたるかも知らない私でしたが、この素晴らしい伝統芸能を鑑賞して、すっかり魅了されてしまったのです。



みなさんは、テレビなどで人形浄瑠璃を観る機会があったとしても、古臭いだとか難解だとかという気持ちが先にたって見ようともしなかったのではないでしょうか?
私もそのひとりです。
興味はあったものの、実際に鑑賞するまでは、心のどこかに「たかが人形劇に感情移入などできるものか」という侮った気持ちがあったのは否めません。

絵本太功記十段目

しかし、それは大きな間違いでした。
同じ表情の人形であっても、そのしぐさ、頭(カシラ)の角度、また浄瑠璃(義太夫節)の語りによって、充分な感情表現ができるのです。
こんなことを言ってはなんですが、ヘタな「シェークスピア悲劇」を観るより、絶対感動するはずです。
なぜなら、日本人であるからです。
文化や風俗の違う外国の古典劇と比べるのも変ですが、日本人の持つ独特な美意識や道徳観は、時代が違えど現在も変わらないと思うのです。



少し大げさかもしれませんが「文楽」は、眠っていた日本人の血を呼び起こしてくれるような気がしました。
ずいぶん独りよがりな事を書いてしまいましたが、話を「真桑人形浄瑠璃」に戻します。
「真桑人形浄瑠璃」の演目レパートリーは20以上あるといわれていますが、その中に毎回上演される演目がひとつあります。


太夫・三味線

「真桑誉義農源七郎 水争いの段・初真桑の段」という外題の人形浄瑠璃です。
それは、まさにこの「真桑人形浄瑠璃」の始まりとなった福田源七郎をモデルにした演目なのです。

その内容を簡単に解説しますね。
この地の庄屋であった福田源七郎は、近隣との水争いを解決すべく江戸の評定所に旅立つと宣言します。
しかし、この時代、江戸への旅は大変な苦労をともないます。

真桑誉義農源七郎

源七郎の女房は、思い留まるように泣いてすがりますが、源七郎は聞き入れません。
涙にくれる女房でしたが、夫の決意に負け、困った時には、この櫛を路銀のたしにするようにと自分の髪にさした先祖伝来の高価な櫛を差し出し見送ります。
月日は過ぎ、夫との音信も不通になってしまった女房は病気の幼子を抱え、もはやこれまでと自ら命を絶とうとすると、そこに突然、獅子頭を被った源七郎が現れます。





念願成就を果たした源七郎が、病気の幼子に「真桑瓜」を与えるやいなや幼子は元気を取り戻し、そして、待ちわびた女房の髪にやさしく櫛を挿します。
どんなに苦労をしても、妻から渡された櫛を路銀には換えていなかったのです。
その訳を聞いて女房はむせび泣いたのでした。
以上が簡単なあらすじで、いわゆる「世話物」に分類される話です。
ここで私が言いたいのは、地元の話を地元の人たちが伝承していくということの重要性です。
徳島の阿波浄瑠璃で、地元を舞台にした「傾城阿波の鳴門」が大事に伝承されているように、この地においては「真桑誉義農源七郎」が大事に伝承されているということがとても嬉しく感じられたのです。


歌舞伎の演目にもなっている「傾城阿波の鳴門」や「壺坂霊験記」のように有名な演目ではありませんが、「真桑誉義農源七郎」の話をたくさんの人に知ってもらいたい、この日は、そんなことを思いながら帰途につきました。

今回、「真桑人形浄瑠璃」を書くにあたり、「文楽」について私なりにいろいろ調べました。
「文楽」そのものの歴史や「浄瑠璃」と呼ばれる義太夫節、人形の仕組みや人形遣いのこと・・・しかし、それは一夜にして理解できるものではなく、輪郭をおぼろげに掴んだだけに過ぎません。
不確かな情報は、なまじ妨げにもなるような気がしたので書くことを控え、ただ自分が観たものの感想のみに留めました。


みなさんも「文楽」は古臭い、「文楽」は難しいなどという先入観を捨て、一度鑑賞してみてはどうでしょう、自分の世界が広がりますよ。
それぞれの郷土に息づく伝統芸能、その一端を紹介しただけですが、みなさんの心にお届け出来たでしょうか?



2012年3月19日月曜日

近江八幡 左義長まつり

今回訪れたのは、湖東の町近江八幡に春を告げる左義長まつりです。
皆さん、「左義長まつり」を御存知ですか?
「左義長まつり」と呼ばれる祭りは、日本全国にありますよね。
ふつう、1月の15日前後に正月飾りなどを焼く行事、すなわち「どんど焼き」のことを「左義長」というのだそうです。
日本全国で行われる「左義長まつり」には、それぞれ個性があるようですが、ここ近江八幡の「左義長まつり」にもユニークな個性がありますよ。



では、近江八幡左義長まつりのご紹介しますね。
まずは、「だし」の紹介から。
近江八幡左義長まつりには、12台の「だし」が登場します。
左義長まつりは火祭りですから最終的には全部の「だし」を燃やしてしまうので、毎年新たに制作します。
「だし」のテーマは干支飾り、今年は辰年ですから「龍」ですね。
それぞれの地区が工夫を凝らし、「龍」をかたちどった「だし」を三ヶ月かけて作り、出来栄えを競い合うわけですが、その「だし」には、ここに近江八幡左義長まつり独特の面白さがあるのです。
それは「だし」の素材に潜んでいます。
長くひっぱりましたが、面白さの秘密は「だし飾り」がすべて食物で出来ているということなのです。

パイナップルのうろこ・棒鱈の角・氷下魚・きくらげ・昆布

穀物、あるいは海産物などで出来た「だし飾り」は、近づいて見ないとそれと気づきません。
出来栄えの素晴らしさは、ユニークというより、もはや芸術作品と呼んでもいいくらいです。
それぞれの地区がプライドと意地を賭けて制作した「だし」、必見の価値がありますよ。

祭りは、組んだ丸太の上に「だし飾り」や松明や赤紙をのせ、神輿のような形になった「だし」を若者達が担ぎ、町内を「チョウヤレ、マッセ、マッセ」の掛け声とともに練り歩きます。
その昔、織田信長も踊りだしたという逸話が残っているように、色とりどりに髪をスプレーで染め、傾(カブ)いた姿で躍動する若者が信長と重なるような気がしました。


最終日は日牟礼八幡宮に集結するのですが、その際の勇壮な「だし」のぶつけ合いも迫力があります。
私は時間の関係で、最後に火が放たれる瞬間までは見学できませんでしたが、さぞや壮観であっただろうと思います。

ではここで、近江八幡の歴史と街並みを少し紹介したいと思います。
近江八幡は水の郷、そして近江商人の町として有名な場所です。




その昔、琵琶湖を往来する船の寄港地として八幡掘を廻らした豊臣秀次は楽市楽座を設け、この地を商業都市に仕立て上げました。
しかし、秀吉の暴挙により失墜した秀次は清州に左遷され、賑わいをみせた八幡城下は一気に衰退してしまいます。
そんな中で、この地の商人達は底力を発揮したのです。
彼らは肩に天秤棒を担ぎ行商に出かけるようになり、やがて商隊を結成して全国を廻り独自の販路を開拓していきました。
これが近江商人のはじまりです。
八幡堀

やがて江戸時代中期になると幕府は、大きな財を持つ近江商人を直轄し牽制しますが、一方で通行手形などの優遇を与え共存をはかります。
この地を本拠地にして飛躍的発展をとげた近江商人は、幕府や各藩の御用商人となり莫大な富と高い教養を身につけていきます。
やがて、近江商人の名は全国に轟くようになっていったのです。

次は町並みの紹介をしましょう。
なんといっても素晴らしいのは、八幡堀を囲む情緒あふれる景観です。
掘割り沿いには古い佇まいの商家や白壁造りの土蔵が建ち並び、往時の繁栄を物語ります。
新町通りの街並み
堀割りには各商家の舟寄せとなった石組みの歩道があり、現在は観光に訪れた人たちの遊歩道として整備されています。
みなさんは気づいてないかも知れませんが、八幡堀あたりは時代劇などのロケ地として度々テレビに登場しているのですよ。
そんな趣きある八幡堀を春には桜や新緑の柳、夏には花菖蒲が彩ります。
花を愛で散策するもよし、また屋形船に揺られて巡るのも一興です。
近江八幡の見どころは、八幡堀だけではありません。
伝統的建造物の建ち並ぶ新町通りもまた、近江商人達の往時の面影を残す素晴らしい町並みです。
一般公開されている旧西川家や旧伴家では、商家としての体裁を保ちながらも高い教養と洗練された意匠が随所に見ることができます。

私は、四季を通じて美しいこの近江八幡の町が好きで度々写真などを撮りにいきます。

皆さんにも、ぜひ一度訪れてはいかがですか?