2011年12月5日月曜日

丈山苑 石川丈山、その風雅な世界

丈山苑 唐様南庭園

「みなさんは、石川丈山という人物をご存知ですか?
石川丈山は、江戸時代初期の文人で、儒学者にして能書家、漢詩人であり茶人、そのうえ作庭家でもあったという、多彩な才能を持った人物です。
もともとは、徳川家康の近侍でもあった勇猛な武人でしたが、武功を認められなかったため、あっさりと武士を辞めてしまったというエピソードの持主でもあります。
十代、二十代のころは武芸一筋に生き、三十代になってから儒学を学び、ついには文武ともに優れた人物として名を成した人です。



母を養うため、再度仕官しますが、母が亡くなると、またもや、あっさりと武士を捨ててしまい、隠遁生活を始めたそうです。
その隠遁生活を送った場所が、京都市左京区にある「詩仙堂」です。

しかし、今回は、京都の「詩仙堂」ではなく、石川丈山の故郷、安城市和泉町にある「丈山苑」を紹介したいと思います。
なぜ、「丈山苑」なのかって?
その理由は、その建物及び庭園が京都の「詩仙堂」を模して造られたものだからです。
「丈山苑」は、平成8年に完成、公開された建造物です。



「丈山苑」の造営に至る経緯については、私の知るところではありませんが、私には、ただ単に郷土出身の偉人だからという理由で建造されたのではないように思えるのです。
そこには、丈山の故郷としてのプライドが滲み出ています。
本来、「詩仙堂」はここにあるべきなのだという強い主張、たとえ都で暮らし故郷には帰らなかった人であっても、故郷を捨てた人ではないということを伝えたかったのではないかと、勝手に推察してみました。




その根拠は、「丈山苑」の佇まいにあります。
「詩仙堂」に勝るとも劣らないその佇まいは、風格と気品に満ち、庭園においては、「詩仙堂」庭園かと見紛う程に忠実に再現されています。
唯一、足りないものと言えば、歴史だけなのです。

ここまで、「詩仙堂」を忠実にコピーすることについては、賛否両論あるでしょうが、私は好意的に受け止めたいと思いました。

石川丈山

京都の観光名所である「詩仙堂」ではなく、郷土の偉人、石川丈山その人を知ってもらいたいという気持ちが伝わってくるからです。

さて、「丈山苑」に対する私的見解は、この辺で終わりにして・・・。
私が訪れた日は、小雨降る土曜日。
雨に濡れた石段を登って行くと、そこは今まさに紅葉の盛りとなった楓のトンネルがありました。
京都の「詩仙堂」といえば、言わずと知れた紅葉の名所です。
紅葉の季節ともなれば、「詩仙堂」は、多くの観光客でごったがえしていることでしょう。


紅葉のトンネル


そんな中、私は「詩仙堂」庭園とそっくりな「丈山苑」の庭園を、ほぼ独り占めで拝見してきたのです。
なんとも贅沢なことでしょう(*^^)v

「丈山苑」の見どころは、庭園だけではありません。
「丈山苑」には「詩仙堂」と同様に「詩仙の間」呼ばれる、四畳半程の部屋があります。
そこには、「三十六歌仙」を選定した藤原公任に倣って、丈山と林羅山が選定した中国の漢詩人三十六人の肖像画が掲げられています。
つまり「三十六詩仙」ということですね。
「詩仙堂」の名の由来は、ここからきているのです。

詩仙の間


「詩仙の間」に掲げられた肖像画は複製ですが、実物は、狩野探幽の絵に丈山が書を描きこんだと伝えられるもので、重要美術品として徳川美術館に収蔵されているそうです。

写真のとおり、「詩仙の間」の長押(なげし)に、ずらりと並んだ36枚の肖像画は、凝った空間演出ですが、決して華美な感じではなく、「学び」の人であった、丈山の知性が感じられます。





このように美しい「丈山苑」ですが、残念なことに、あまり多くの人に知られてはいません。
この美しい紅葉の庭園を独り占めにしたいのなら、今がチャンスですよ(^_-)
庭園を眺めながら、お抹茶もいただけます。
みなさんも、来週あたり、お出かけしてみたらいかがですか?

では、最後に丈山が、望郷の想いを詠んだ「詠懐」という漢詩とその解釈を紹介します。



我が故郷の三河国には、なお遠く、今回の定めた新居は、京都五山のひとつ相国寺の近くである。
仕官の途をあっさり放棄して、天然のうちに心を遊ばせることとし、倫理・道徳の行われない俗世を見限って、それは自分の心の中にしまいこみ、自然のままの本性を大事に生きることとした。
少游が質素なくらしに自足した、あの態度をできるだけ見習い、栄啓期が「貧しいのは士太夫の常態だ」といったように、我が身の貧乏なことを、ちょっとばかり忘れることにした。
これからは、なんとか持病の養生を心がけて、世間から隠れ住むこととし、我が心のおもむくがままに生きて、生涯を終えようと思う。
この年齢になるまで、妻子というものがないから、子孫のことを心配しなくてもよい。この世の鬼や神などというものも、自分には関心のないことだ。
ましてや世俗のにぎわいなど、まったくありがたくない。門前に来訪者の車馬が位置をなすような権勢栄華も、自分には、はかないちり一つといった程度にしか思われない。

【以上、「丈山苑」で頂いた、漢詩についての解説をそのまま引用させて頂きました】

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